安楽死をめぐって

3月16日のTBS「報道特集」では、安楽死をめぐって多方面から取材を重ねた結果を放映していて、種々考えさせられる有用な内容だった。

まず、実際に安楽死を実行した二人が紹介された。一人はフランス人男性、もう一人は日本人女性だった。二人とも、外国人の安楽死が認められているスイスで、実際に希望通りに亡くなった。それまでのプロセスや、本人インタビューなども放映された。

スイスでの安楽死には厳しい4つの条件がある。1)耐えがたい苦痛(肉体的、精神的)、2)回復の見込みがない、3)代替の治療方法がない、4)本人の明確な意思が確認できる、の4点である。

さらには、資格のある医師が希望者と面接して、慎重に安楽死の是非を判断する。私には、このスイスの方式はよく考えられた、合理的なやり方に思われた。唯一の気がかりは、その判定する医師の資格や就任基準が明確に示されていない点だったが。

安楽死したフランス人男性は、事故で首から下が全く動かせず、しかも治せない種々の身体的苦痛に悩んだ末に安楽死を希望するに至る。家族の同意を得て、両親との別れも済ませ、最愛の妹が見守る中で、自分の口で致死薬の注入されるコックを開き、好きな音楽を聴きながら旅立った。

二人目の日本人女性はパーキンソン病で治癒の見込みがなく、一人暮らしの先行きを考えての決断だった。放置すればまだ生きることは可能に思われ、番組スタッフもその点を尋ねたが、身体の不自由と不快感その他を考えると、しっかり考えられるうちに決行したいのだと述べ、その通りに安楽死を実行した。いずれも、自らの意思をしっかりと持ち、迷いなく自らの死を演出した点が非常に印象的だった。

三人目の例は、実行直前に取りやめたケース。若い日本人女性で、全身に重い障害があり両親の世話で生きているのが辛いからと安楽死を希望した。両親は強く反対したが、本人の強い希望でスイスまでやって来て、医師の面接も受け、いざ実行と言う段になって本人に迷いが出たため、医師が止めて安楽死の実行には至らなかった。医師は、迷いがあるうちは実行しない方が良い、その決断は正しいと患者を励ましており、このシーンに私は強く心打たれた。

そして話題は日本に移り、安楽死が法的に認められることを強く危惧する声が紹介される。重い障害などがある患者の場合、周囲への負担感などから「自分はもう死んだ方が良いのでは?」と思うようになる、あるいは、そう思わせられる、つまり、安楽死を誘導ないし間接的に強制するような雰囲気作りに利用されるのではないかとの危惧だ。

これは日本でならば十分に考えられる事態だ。なぜなら、日本社会は、弱者に対して非常に冷たいからだ。実際、透析患者は社会への大きな負担を掛けているのだから早く死ぬ方が良いと公言した政治家がいる。また最近、成田悠輔という若い学者が「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」と繰り返し発言して物議を醸した。しかも彼は農水省財務省の広報に起用されているのだ。つまり日本政府は彼を公認している。

これらはいずれも、日本社会を広範に支配している新自由主義の現れと言って良く、要するに「弱い者は死ね、強い者だけが生き残れば良いのだ」との思想である。ここには、自分がその立場にだったらとか、いつか自分もその弱い立場になるかも知れないとかの想像力も、利他・慈悲の精神なども、一欠片とてない。すべてを経済効率で判断する価値観が支配する世界だ。

こう言う社会では、安楽死が合法化された場合に、一種の「悪用」が行われる危険性を排除できないと思う。危惧する声が出るのは当然だ。

ここで、スイスで安楽死した人たちの考えと日本での安楽死への危惧の声は、全く通い合わずにすれ違っている。前者は、自分の死に方を自分で決める権利を主張し、スイスの法制度はこれを支持する立場で合法化しているのに対し、日本での「危惧」は、要するに安楽死を便利に「利用」されることへの怖れだからだ。これは、個人の尊厳、死の迎え方に対する社会の基本的な姿勢の違いでもある。

そもそもスイスの安楽死4条件では、周囲から安楽死をたとえ間接的にせよ強制されるような事態は全く考えられていない。あくまでも個人の自己決定権の問題として捉えられている。

私もこの立場で、日本でも安楽死が合法化される方が望ましいと考える。ただし、間違ってもそれが変な形で「利用」され、単なる自殺幇助にならないような歯止めをかける仕組みの整備が要る。それには、多方面からの真剣な議論が必要だ。脳死の時のように。

脳死」の判定基準は、種々の議論を踏まえた末に、かなり厳しい基準で決められた。これは臓器移植の問題が絡んでいたこともあり、社会的な関心もニーズも高かったので、かなり早くから日本でも真剣に議論された末にガイドラインが策定された。

安楽死に関しても、自分の最期を自分で決められる権利の行使と言う立場で、悪用されない条件を厳しく設定して上で、法制化されたら良いと私は思う。

私は透析患者だから、透析を止めれば確実に死ぬ立場の人間だ。だから、もしも透析の効き目がなくなったり生きて行く条件が閉ざされるなら、自分で自分の最期をコントロールしたい。その意味で安楽死の社会的な受容と法制化を希望する。

もちろん、今の時点では死ぬ気はないし、書き残しておかなければならないと思うことが多いので、健康には極力留意し「生きて考えて書く」生活をできるだけ長く続けるつもりだ。

もう一つ、安楽死が問題になるような人たちよりも、自殺者、つまり本来なら元気に生きて行けるはず人たちが自ら死を選んでしまう例の方が格段に多いことに注意したい。日本では長い間、自殺者が毎年2万人以上もいる。1998年以降14年連続して3万人を越えていて、それ以降は減少傾向だったが、まだ、やはり毎年2万人を越えている。まずは、この人たちが生きて行けるセーフティーネットの構築が最優先課題だろう。