「憲法の無意識」を読む

柄谷行人憲法の無意識」(岩波新書)を読んだ。200頁足らずの新書だが内容充実、日本人なら誰でも読むべき本の一つだと思った。なぜなら、日本国憲法について重要なことがたくさん述べられているからだ。この本が出たのは2016年だが、今読んでも実に新鮮だ。

日本国憲法は、戦後一貫して保守勢力が廃棄したいと望んできた。特に、第9条の非戦項目が邪魔で仕方がなかった。それで、この憲法は占領軍に押しつけられたものだから自主憲法を作ろうとか、非戦・平和主義などは夢物語の「お花畑」に過ぎないなどと嘲笑して貶めようとしてきた。どうにかして、昔のように軍隊を持ちたいと考える勢力が常に一定数いたからだ。今も、国会で絶対多数を持つ与党が「改憲」に前のめりだ。

しかしその改憲勢力でさえ、改憲の理由を正面から「戦争の出来る国にするために」と言うことができない。それを言ったら、国民投票過半数を得るなどまず無理だと、彼らでさえ知っているからだ。ネット社会では右翼の「勇ましい」声がやたら大きくて、世の中の大勢は改憲に傾いているようにさえ思えるが、実情は然に非ず、戦争などやりたくないと思っている国民が大多数なのだ。当たり前だ。実際に意識調査すれば分かる。

憲法の無意識」では、まず日本国憲法第9条の謎を挙げる。1)世界史的に異例のこのような条項が、なぜ戦後の日本国憲法に存在するのか?(非戦項目を憲法に掲げる国は、世界にほとんどない。) 2)9条があるのに、実行されていないのはなぜか? 3)実行しないのなら9条を廃棄すれば良いのに、なぜ今も残されているのか?など。

太平洋戦争が惨憺たる敗戦で終わった後、多くの日本人は「戦争などもうコリゴリだ」と思ったはずだが、しかしそれで9条が出来たわけではない。この憲法は、改憲論者が言うとおり、占領軍が「押しつけた」ものだ。日本人だけでこの憲法が作れたかは大いに疑わしい。実際、最初は日本人に新憲法の草案を作らせたが、内容が旧憲法と大差なかったので却下され、占領軍主導の下に新たな草案が作られたと言う「史実」がある。

戦後ずっと憲法が守られてきたのは、国民が左翼知識人に洗脳されたからなのか?それも事実とは違う。左翼は元来、憲法9条に賛成ではなかった。実際、新憲法を審議する帝国議会で、共産党野坂参三は「戦争には正しい戦争とそうでない戦争がある。侵略された国が祖国を守るための戦争は正しいのではないか?」と述べている。今の、中露北朝鮮などに対して武装を強めるべし、と言う議論とそっくりだ。実際、新左翼には武装勢力たる「赤軍派」さえもいた。ただし左翼はその後平和憲法を支持し、護憲派に転じている。

これに対して当時の吉田茂首相は、保守派ながら「近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認めることが戦争を誘発するゆえんであると思うのであります。」と答弁した。今の保守派でこんなことを言う論客はいないだろう。今の保守の大半は改憲派だ。要するに、保守派も意見を180度と言えるほど変えてきたのだ(吉田茂自身、その後は憲法を変えようと努力さえした)。

こうして種々の「ねじれ」を伴いながら、なぜ憲法9条が生き残ってきたかの理由を、柄谷は日本人の「無意識」による、と述べている。これについては、長くなるので本文を読んでいただきたい。その重要なキーワードは「フロイト」であって、憲法9条を後期フロイトの認識から見ることの重要性が述べられている。

後期フロイトの考えを使えば、憲法9条が外部の力、つまり占領軍の指令によって生まれたにもかかわらず、日本人の無意識に深く定着した過程を見事に説明できる。まず外部の力による戦争(攻撃性)の断念があり、それが良心(超自我)を生み出し、さらにそれが戦争の断念をいっそう求める、と。この辺の第1章の議論は実に興味深い。

第2章「憲法の先行形態」では、9条が本来、1条(象徴天皇制)を作るための必要条件だったことを論じて、非常に説得的だ。逆に言えば、非戦条項を設けなければ、天皇の戦争責任が問われるので、たとえ主権のない「象徴」とはいえ天皇制を維持するには「天皇の名による戦争」を全面否定しなければならなかった。実際、戦勝国側の多くが、天皇の戦争責任を問うべきだとの意見を持っていた。米軍のマッカーサーだけが、日本の占領には天皇が要るとの考えで、天皇制維持を欲したのだ。つまり、1条には9条が必須だった。

そして、戦後憲法の先行形態を考えるには明治憲法では不足で、さらにその前の徳川体制を考えるべきだと説いている。そして日本史を奈良朝以降から眺めて、天皇と政治権力の関係を分析する。その結果出てくるのは、天皇はいつも実権がない代わりに「象徴」的な権威を持ち、多くの権力者は「天皇から命じられた支配者」の名目で日本を統治してきた。つまり、日本史の大部分は「象徴天皇制」だったわけだ。故に、戦後憲法の先行形態は天皇主権の明治憲法ではなく、徳川体制までの、象徴天皇制と全般的な非軍事化の社会形態である。つまり、戦後体制とは徳川体制への先祖還りであると。この議論も実に面白い。ただし、柄谷は徳川体制を賞賛したいのではない。それは次章で明らかになる。

第3章「カントの平和論」:この章も見事だ。カントが1795年に書いた「永遠平和のために」の考えを敷衍して論を進めている。これらは以前の「トランスクリティーク」などで、柄谷本の愛読者には「お馴染み」ではあるが、何せカントが出てくるので簡単ではない。

憲法9条が含意するのは、カントが明確にした普遍的な理念である。カントの議論はヘーゲルなどの「現実派」等にさんざん批判されたが、その説得力は失われていない。それが実感を持って理解されるには、第3章全体を読まなければならない。そこでは「トランスクリティーク」と同様、カント・マルクスフロイトらが種々議論されるので。

第4章「新自由主義と戦争」:この章は、まさに現代の中心課題に正面から向き合った議論を展開していて読み応えがある。この章は次の感動的な文章で終わる。曰く「実際に、日本人は憲法9条によって護られてきたのです。空想的リアリストは憲法9条があるために自国を護ることができないというのですが、われわれは憲法9条によってこそ戦争から護られているのです。」全く、その通りだ。これに付け加える言葉はない。全ての日本人にこの本を薦めたい。