「憲法の無意識」を読む

柄谷行人憲法の無意識」(岩波新書)を読んだ。200頁足らずの新書だが内容充実、日本人なら誰でも読むべき本の一つだと思った。なぜなら、日本国憲法について重要なことがたくさん述べられているからだ。この本が出たのは2016年だが、今読んでも実に新鮮だ。

日本国憲法は、戦後一貫して保守勢力が廃棄したいと望んできた。特に、第9条の非戦項目が邪魔で仕方がなかった。それで、この憲法は占領軍に押しつけられたものだから自主憲法を作ろうとか、非戦・平和主義などは夢物語の「お花畑」に過ぎないなどと嘲笑して貶めようとしてきた。どうにかして、昔のように軍隊を持ちたいと考える勢力が常に一定数いたからだ。今も、国会で絶対多数を持つ与党が「改憲」に前のめりだ。

しかしその改憲勢力でさえ、改憲の理由を正面から「戦争の出来る国にするために」と言うことができない。それを言ったら、国民投票過半数を得るなどまず無理だと、彼らでさえ知っているからだ。ネット社会では右翼の「勇ましい」声がやたら大きくて、世の中の大勢は改憲に傾いているようにさえ思えるが、実情は然に非ず、戦争などやりたくないと思っている国民が大多数なのだ。当たり前だ。実際に意識調査すれば分かる。

憲法の無意識」では、まず日本国憲法第9条の謎を挙げる。1)世界史的に異例のこのような条項が、なぜ戦後の日本国憲法に存在するのか?(非戦項目を憲法に掲げる国は、世界にほとんどない。) 2)9条があるのに、実行されていないのはなぜか? 3)実行しないのなら9条を廃棄すれば良いのに、なぜ今も残されているのか?など。

太平洋戦争が惨憺たる敗戦で終わった後、多くの日本人は「戦争などもうコリゴリだ」と思ったはずだが、しかしそれで9条が出来たわけではない。この憲法は、改憲論者が言うとおり、占領軍が「押しつけた」ものだ。日本人だけでこの憲法が作れたかは大いに疑わしい。実際、最初は日本人に新憲法の草案を作らせたが、内容が旧憲法と大差なかったので却下され、占領軍主導の下に新たな草案が作られたと言う「史実」がある。

戦後ずっと憲法が守られてきたのは、国民が左翼知識人に洗脳されたからなのか?それも事実とは違う。左翼は元来、憲法9条に賛成ではなかった。実際、新憲法を審議する帝国議会で、共産党野坂参三は「戦争には正しい戦争とそうでない戦争がある。侵略された国が祖国を守るための戦争は正しいのではないか?」と述べている。今の、中露北朝鮮などに対して武装を強めるべし、と言う議論とそっくりだ。実際、新左翼には武装勢力たる「赤軍派」さえもいた。ただし左翼はその後平和憲法を支持し、護憲派に転じている。

これに対して当時の吉田茂首相は、保守派ながら「近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認めることが戦争を誘発するゆえんであると思うのであります。」と答弁した。今の保守派でこんなことを言う論客はいないだろう。今の保守の大半は改憲派だ。要するに、保守派も意見を180度と言えるほど変えてきたのだ(吉田茂自身、その後は憲法を変えようと努力さえした)。

こうして種々の「ねじれ」を伴いながら、なぜ憲法9条が生き残ってきたかの理由を、柄谷は日本人の「無意識」による、と述べている。これについては、長くなるので本文を読んでいただきたい。その重要なキーワードは「フロイト」であって、憲法9条を後期フロイトの認識から見ることの重要性が述べられている。

後期フロイトの考えを使えば、憲法9条が外部の力、つまり占領軍の指令によって生まれたにもかかわらず、日本人の無意識に深く定着した過程を見事に説明できる。まず外部の力による戦争(攻撃性)の断念があり、それが良心(超自我)を生み出し、さらにそれが戦争の断念をいっそう求める、と。この辺の第1章の議論は実に興味深い。

第2章「憲法の先行形態」では、9条が本来、1条(象徴天皇制)を作るための必要条件だったことを論じて、非常に説得的だ。逆に言えば、非戦条項を設けなければ、天皇の戦争責任が問われるので、たとえ主権のない「象徴」とはいえ天皇制を維持するには「天皇の名による戦争」を全面否定しなければならなかった。実際、戦勝国側の多くが、天皇の戦争責任を問うべきだとの意見を持っていた。米軍のマッカーサーだけが、日本の占領には天皇が要るとの考えで、天皇制維持を欲したのだ。つまり、1条には9条が必須だった。

そして、戦後憲法の先行形態を考えるには明治憲法では不足で、さらにその前の徳川体制を考えるべきだと説いている。そして日本史を奈良朝以降から眺めて、天皇と政治権力の関係を分析する。その結果出てくるのは、天皇はいつも実権がない代わりに「象徴」的な権威を持ち、多くの権力者は「天皇から命じられた支配者」の名目で日本を統治してきた。つまり、日本史の大部分は「象徴天皇制」だったわけだ。故に、戦後憲法の先行形態は天皇主権の明治憲法ではなく、徳川体制までの、象徴天皇制と全般的な非軍事化の社会形態である。つまり、戦後体制とは徳川体制への先祖還りであると。この議論も実に面白い。ただし、柄谷は徳川体制を賞賛したいのではない。それは次章で明らかになる。

第3章「カントの平和論」:この章も見事だ。カントが1795年に書いた「永遠平和のために」の考えを敷衍して論を進めている。これらは以前の「トランスクリティーク」などで、柄谷本の愛読者には「お馴染み」ではあるが、何せカントが出てくるので簡単ではない。

憲法9条が含意するのは、カントが明確にした普遍的な理念である。カントの議論はヘーゲルなどの「現実派」等にさんざん批判されたが、その説得力は失われていない。それが実感を持って理解されるには、第3章全体を読まなければならない。そこでは「トランスクリティーク」と同様、カント・マルクスフロイトらが種々議論されるので。

第4章「新自由主義と戦争」:この章は、まさに現代の中心課題に正面から向き合った議論を展開していて読み応えがある。この章は次の感動的な文章で終わる。曰く「実際に、日本人は憲法9条によって護られてきたのです。空想的リアリストは憲法9条があるために自国を護ることができないというのですが、われわれは憲法9条によってこそ戦争から護られているのです。」全く、その通りだ。これに付け加える言葉はない。全ての日本人にこの本を薦めたい。

今後の世界経済

4月21日の田中宇国際ニュース解説(https://tanakanews.com/index.html)は、会員向けの有料記事だったが、相変わらず大いに勉強になった。前回書いた金地金の話の続きに近い内容だったが。

アラビア半島の両側、つまり対岸がイランのペルシャ湾と、対岸がエジプトの紅海は、世界貿易の主要航路だが、現在では両方とも通行許可を事実上イランが握っているらしい。

まず、紅海の航路はイエメンのフーシ派が握っているが、このフーシ派はイラン傘下にある。これが親イスラエル国の船を空爆して追い払う半面、中露など非米諸国の船は通す。またペルシャ湾とインド洋をつなぐホルムズ海峡の通行許可はイランが直接握り始めている。つまり世界貿易の大きな部分が、イランの影響力下にある。

以前は米国の軍事外交力が強くてこんなことは出来なかったが、最近は米軍が弱くなり、フーシ派やイランを制御できていない。

サウジは表向き親米・米傀儡国を演じながら、実質的に中露イランと結託する非米側の国に転換しつつある。イランとサウジは昨年、習近平の仲介で和解した。おそらく、サウジは米側より非米側と緊密に繋がる方が将来性が高いと踏んでいるだろう。多分それは正しい判断だ。

米国・欧日など米側は中露イランを「新・悪の枢軸」に指定するつもりのようだが、中露イランにとっては痛くも痒くもない。中露イランはサウジ・インドなど他のBRICSと結びついて新しい非米系の経済圏を構築するつもりだ。現に彼らはすでに資源類も巨大消費市場も製造技術も持っているから、米側にどんな「意地悪」されても、もう困らなくなっている。世界の政治・経済における米国一強支配体制は、既に崩れているのだ。

米国自体も、イラン系の航行制限による資源類の高値、品不足、インフレに悩まされている。国内外の流通網の詰まりが続くため、インフレが収まらない。インフレが酷いので利下げなど出来ず、むしろ利上げさえ必要になっている。しかし利上げすると財政赤字がさらに悪化する。財政赤字の急増は米国債の過剰発行であり、長期金利の上昇を招く(現に上がり始めている)。金利が上がれば国債利払いも増加するから、財政赤字がさらに増大する。IMFなどが(たまりかねて)米国に警告したが無視されたそうだ。無視するしかなかったんだろうけれど。

こんな状態なので、基軸通貨であるはずのドルが、いつ崩壊するか分からない。日本国内ではそんなことは何も知らされず、生命保険を外国通貨建てにする方が金利が高いのでトク、なんて宣伝されているが、ドル建ての保険なんて、もはや危なくて「買ってはいけない」商品だろうに。ドルがこんな状態だから金相場が上がる話は前回書いた通り。

要約すれば、米欧日側は先進国として一見優位に見えるが、実質的には資源がなく「おカネ」だけは潤沢だが少子高齢化とインフレの傾向が続く。インチキな温暖化対策などに乗ってしまい、自滅的な方向に進んでいる。本当なら、中露イランなど非米側諸国と仲良くして相互互恵の関係を結ぶのが正しいのに。

日本も同じだ。今回の岸田訪米演説でも分かるように、今の日本は完全に米国の支配下にある属国である。いつまで、米国一強伝説を信じるのだろうか?あの岸田演説は、まさに歴史に残るほどの米国隷属宣言だった。バイデンさん、お望みなら足の裏でもなめってみせます、みたいな演説だったのだから。右翼の皆さん、もっと怒って下さい!日本人の誇りは、どこへ行ったんだと。

それにしても、今、麻生太郎がトランプに会いに行くって、意味不明。ついこの前、岸田が上記のように追従してきたばかりなのに、この時期にトランプに会いに行く意図が分からない。岸田がこれを許したのか、麻生が反対を振り切って行ったのか不明だが、バイデン政権からは不愉快にしか見えないはず。それに、この頃外務大臣の上川は全然出てこないな・・。何してる?SDGsの次のバージョンを考える会議に出席?今はSDGsなんて言ってる場合なのかね?

「美」について

「美」とは何だろうか?「美」は人によって受け取り方が違う、という点では極めて個人的・主観的な感受性の問題として扱われがちであるが、しかし一方、対象によっては相当多くの人が美しいと感じるもの・作品等があり、その意味ではある程度の普遍性・社会性を備えている。もちろん、誰か「権威」のある人が褒めたり、多くの人が美しいというから美しいと思い込んでいる例もあるだろうけれど。

私自身の例で言えば、若い頃からゴッホピカソやクレーの絵には「美」を感じていたが、一方で例えばセザンヌの作品には正直言ってそれ程の美は感じていなかった。しかしある時、セザンヌの絵を見ていて突然、ああそうか・・という感じでセザンヌの美しさが実感できた。その後は、セザンヌ作品の多くに強く「美」を感じることができ、断然好きになった。

絵だけでなく仏像などの彫刻や建築物、夕焼け空などの風景、あるいは人物像などでも美を感じることはある。スポーツあるいはダンスやバレエなどの「動き」にも美はあるし、目に写る映像の中で何らか「美しさ」を感じる場面はたくさんある。道端に咲く一輪の花にも、人は美を感じるものだ。

むろん耳から入る情報に「美」を感じることも多い。単純な和音でさえも耳に心地よく、幼い日のモーツアルトは、何も知らずにピアノの鍵盤を叩いて気に入る和音を見つけ出すと大喜びしたそうだ。音楽作品の美しさは、必ずしも綺麗な和音でなくても、不協和音に美を感じることだってある。爆音ヘビーメタルにも美は存在すると私は確信している。

人が何かを見たり聴いたりして「美しい」と感じるとき、その人の中にはある種の快感あるいは喜び・嬉しさの感情が起きていることが多いはずだ。むろん、美を感じさせるもの全てが甘美なわけではなく、苦さや痛みを感じさせる「美」もないわけではない。例えば「21世紀のバグ男」と呼ばれる大竹伸朗のハチャメチャな作品は、多くの人にとって美を感じさせるのは難しいと思うが、私はその中に一種の美を感じる。しかしそれは、やや苦味を含んだ美である。

片や、私は各種の「現代アート」と呼ばれる作品や、あるいはコシノヒロコの水玉模様の作品群には、ほとんど美を感じない。美しいと感じないのだから仕方がない。

あるアーティストが、美術展に便器を「花瓶」と言う題で出展したことがあるそうだ。これは一種の「皮肉=アイロニー」なのかも知れないが、ある種、「美」の二面性を鋭く演出して見せた例かも知れない。つまり、便器と言えども「美しい」作品だと思えるなら、それは美しい芸術作品にも見えるから純粋に個人的・主観的な受け取り方の問題である一方、常識的には便器に「美」を感じる感受性は何か常軌を逸していると考えるのが普通で、その意味では普遍性・社会性を備えている。

数理的な言い方をすれば、美に関する感受性は、ある種の確率的分布で拡がっていると言えるだろう。つまり、誰もが美しいと思えるものを中心のピークとして、それから離れるほどに美しいと感じる人が減って行く有様は、正規分布曲線に近いのではあるまいか?

プラトンが美の「イデア」を考えたのには、おそらく理由がある。多くの人は、そんなイデアなど実在しないから無意味だと考えがちだが、私の考えでは、イデアが実在するかどうかなど、プラトンは問題にしていなかった。美を考えるときの何らかの基準・規範として「美のイデア」を考えたに違いないからだ。その場合の基本モデルは、輝ける太陽だったような気がする。

人間は美しいものに目を奪われる一方、醜いもの・惨たらしいものからは目を背けるものだ。その典型例は人間の死体であって、今でもニュース画面で死体は明瞭に写らない工夫が為されている。昔から、死と太陽は直視できないものの典型とされてきたので、美と醜の極致はどちらもしっかりと直視できないのかも知れない。死を美化する考え方は、その意味でも倒錯的だと言える。

以前にも、芸術によって人生を救われた話を書いたが、私にとって「美しさ」は、生きる意味を与えてくれたものの大事な一つではある。こう言うものを味わえる間は、人生は生きるに値する、と強く実感させてくれたからだ。それらの、全ての美しいものたちに、私は心からの感謝の念を捧げたい。

金相場の動きから考える経済のカラクリ

金地金の相場が上昇傾向している。3月に2300ドル/オンスにまで上がった。これまでは2050ドル付近に大きな上値抵抗線があり、そこを一時的に上回っても、しばらくするとまた下がることを繰り返した。しかし今後、2000ドルを下回ることはなさそうだ。

日本の相場でも1グラム12000円くらいになっている。1オンス=28.35g、1ドル=153円とすると、12000円/g × 28.35g/オンス × 1ドル/153円=2223ドル/オンスだから、ほぼ合う。つまり日本でも1オンス2000ドルを軽く超えているわけだ。

米国連銀(FRB)・金融界は、株高・債券高・地金安を好む傾向がある。ドル防衛策として金の価格を低く抑える必要があったからだ。これは金本位制の代わりに「ドル本位制」を維持するために必須だった。つまり世界の基軸通貨としてのドルの「信用」を維持するために必要だったのだ。そのためには相場の歪曲も辞さず、大量の資金・裏金を駆使して金相場の歪曲を繰り返してきた。それで、金相場は2050ドル付近を天井として、上げ止まる傾向にあった。ところが今は、その「たが」が外れかけているようだ。

FRBが行ってきたことは、いわゆる規制緩和QE=造幣による債券買い支えである。日銀その他の各国中央銀行もやっていたが、FRBの規模がむろん一番大きい。大量の資金が流入するので、実体経済は良くもないのに株価は上昇し、インフレなのに米国では国債金利が上がらず低いまま、と言う、経済学教科書にはない状況になっている。これはつまり、裏金注入の効果と言える。日本でも経済状況がイマイチの割に、株高で湧いているけど。

しかし一方、QE財政赤字の拡大でもある。つまり、赤字=国債の大量発行と引き換えに好景気と株高・債券高を演出している。日本のマスコミなどは、盛んに米国経済は好調だと宣伝するが、それは見かけ=上っ面の現象に過ぎない。実際問題として、財政赤字を永続させることは難しいから、いずれその解消を迫られる。

現在、統計数字を見ると米国の実体経済(GDP)は3340億ドル増加している一方で、米政府の赤字は8340億ドル増加している。米国では所得税収入の4割を国債利払いに当てているが、米国の金利は高いのでその財政負担は大きい。なお、日本では金利が低いので財政赤字が多くても簡単には破綻しない。金利の高低にも一長一短がある。

今の米国は国債発行=財政赤字の拡大をやりながら、その資金を金融界に回して国債を買わせ、その利払いで赤字が拡大すると言う、タコが足を食っているみたいな自転車操業を続けている。これがいつまで続くか分からないが、いつまでもは続けられないことだけは分かる。いずれ利払いだけで手一杯になり、米国債金利上昇=価値低下、国債デフォルト=財政破綻というシナリオが現実化するだろう。今は債券高=株高維持が最優先課題なので、資金はこちらに回し、金相場の操作に回す余裕がない。そのために金相場が上がり始めたのではないのか?表に見える現象からだけでも、この程度の推察はできる。

仮定の話だが、正式な形でなく、裏でこっそり造幣する「ウラQE」をやっている可能性もある。これなら無尽蔵に資金を作れるはずだが、これでは紙幣だけダブダブに余るから紙幣の価値が暴落する、つまり悪性インフレや恐慌が起こる。「ウラQE」は、麻薬と同様、一時的にはよく効いて快感が大きいが、副作用がきつい。

こんな綱渡りをやっているので、米国債の危険性に世界の投資家は気づき始めている。それで、米国債より金地金の方が安全な資産だというわけで、金を買いあさる傾向が強まり、金高騰を招いていると読める。

しかし一方、金地金の市場では大半が現物の受け渡しをしない信用取引=ペーパー市場が主流だ。現物取引の何十倍ものペーパー取引が行われている。例えばNYでは金市場の98%がペーパー取引だ。これまでは債券の方が魅力的に見えていたからだ。しかし今後は「ペーパー」の信用が下がり、誰もが現物で保有したがることになるが、実際には現物とペーパーの関係は切れている!つまり「金証書」は、現物に換えようとした途端に紙くずになる。「金に換えられる」という「信用」だけで取引されているからだ。金の現物は、かなり前に中国が金が安値の間にせっせと買い集めたので、世界の金地金の現物は、大半が中国にあるはずだ。米国やドイツの国庫に金地金は殆ど無い。これは、投資詐欺などと同じと言うか、ほぼ詐欺だよな(金に換えられるはずの証券が、実はただの紙切れ・・)。故に、今後、金の現物価格は、もっと高くなると予想される。片や「金証書」は暴落する。

ドルはすでに、石油の国債取引における唯一の決済通貨ではなくなっている。非米圏ではドル以外の通貨で決済しているからだ。「1バレル○○ドル」は既に世界共通ではない。

一方、BRICSではドルに替わる基軸通貨システムを構築中だ。まだ換算レートの決定法その他種々の問題があってゆっくりとしか進んでいないが、彼らの「おカネ」には資源や金などの「価値の裏付け」があるので、実効性のある共通通貨が作れそうだ。

その一方で、ビットコインなどの民間仮想通貨が貿易決済に使われる可能性は低い。これはパソコン上に保全された暗号文字列に過ぎず、価値の実体がないからだ。

例えば金地金には、金属としての実体的価値がある。石油その他の資源も同じだ。これらには経済的な価値の実体があるから、これらが価値ゼロになる確率は低い。しかし、ドルや債券などは「信用」だけが頼りだから、信用が崩れたら価値ゼロになる。つまりこれらは、経済的には「仮想的」価値に過ぎないのだ。

一般化すると、最初は実体価値を持つ商品(金地金や各種資源、食料など)が貨幣に換算され=値段がつけられ、市場で価格を介して取引されてしまうと、その「価値」は貨幣に乗り移ったように錯覚されて、貨幣自体が価値あるもののように認識される。この段階で、本来は価値の根拠がなくなっているのに実体価値があるように思ってしまうのだ。守銭奴とは、おカネに全ての価値が乗り移ったと錯覚している人である。それが錯覚だと分かるのは、バブルがはじけて通貨の価値が暴落する場合などである。または、無人島におカネをいくら持参しても役に立たないを実感する時なども同じ。

だから「経済価値とは実は何なのか」に関しては、今後、より詰めた検討を行う必要がある。

ポリーニ追悼コメントに思うこと

ネット記事やYouTubeポリーニ追悼ものが種々出ていて、新たに知ったこともあるが、評価のあり方に疑問を覚える点も多々あった。

まず前者に関しては、ポリーニカラヤンと共演を1回ではなく複数回行っており、小澤征爾ともボストンで共演したことがあったこと。これは初めて知った。しかし、ポリーニが共演した人のうち、演奏をCDとして世に出すことを認めた指揮者は、ベームヨッフム、アッバードと、あとは晩年のティーレマンしかいない。ムーティら、イタリア人同士とも共演は行ったみたいだが。つまり、彼は共演者も厳しく選んでいたわけだ。

また彼の演奏活動は殆ど独奏によるもので、共演そのものが少なかった。室内楽はイタリア四重奏団との1枚があるだけで、その他のヴァイオリン・チェロ等との共演盤はない。この点でアルゲリッチとは対照的だ。彼女の録音の大半は誰かとの共演で、独奏は案外少ないからだ。特に、ベートーヴェンピアノソナタをほとんど録音していないのが不思議だ。彼女のお師匠はグルダミケランジェリだと言うのに。もっとも、彼女はお師匠たちから、あまり習っていないみたいだが(演奏スタイルも全然違う)。片やポリーニは、ミケランジェリ師匠を深く尊敬していた。演奏スタイルも影響を受けていると思う。

さて、ポリーニ演奏の評価の話に進むと、多くの批評が、デビュー当時の「派手な」演奏を基準としていて、特に1990年代以降は腕が落ちたとしている点に、私は同意できない。確かに、ドイツ・グラモフォンにデビューした時のストラヴィンスキープロコフィエフ、またショパンの練習曲集の録音は素晴らしく、今でもこれを凌駕する演奏はないと言えるくらいだ。この点は多くの論者が一致しているけれど。

例えば、私はプロコフィエフの第7ソナタを、ポリーニアシュケナージリヒテルアルゲリッチで聴き比べたことがあるが、いずれ劣らぬ名演揃いとは言え、ポリーニの演奏が一頭地を抜く感は否めない(アルゲリッチのは少しガサガサと粗っぽい印象)。どんな曲でも完璧に弾きこなす技巧を、若い頃から彼は身につけていた。

しかし長年彼を聴き続けた印象としては、年齢を重ねるにつれて、その種のテクニック的な超絶技巧に対して彼の関心は薄れ、作品を如何に的確に表現するかに集中してきたと思う。そして、弾く対象作品も厳しく選んでいたように思う。だから彼は、たとえショパンでも、ワルツやマズルカの全曲集は録音していない(夜想曲集も、実は私は少し退屈したけど)。ブラームスは協奏曲だけを偏愛し、独奏曲は録音していないが、味わい深い晩年の間奏曲など(作品116~119)を演奏会では披露していたようだ(CD化して欲しい)。

彼のピアノを弾く腕に関して、晩年に至るまで私は不足を感じたことはない。2019年9月にミュンヘンベートーヴェンの最後のピアノソナタ3曲を弾いた演奏会がTVで放映され、当然録画してBRに焼いて取ってあるが、当時77歳の彼は、見かけは白くなった髪の毛も薄くなり、すっかりお爺ちゃん然としていたが、演奏は衰えなど微塵も感じさせず、見事に弾ききった。名ピアニスト、ルドルフ・ゼルキンが亡くなる少し前にウィーンで同じ内容で演奏したCDではミスタッチが目立ち、少し痛々しい印象だったのとは対照的であった。しかもポリーニは曲間の休憩も取らず、3曲通して弾いたのだった。

また、正式のCDとしては生前最後になったベートーヴェンの後期ピアノソナタ集(作品101と106)では、2曲の8楽章とも全部、若い頃の演奏より速く弾いている。第29番ハンマークラヴィーアなど、こんなに速くなくても・・と思ったほどだ。さすがに、この曲をこんな速さで弾いたら、いくらかタッチが粗くなる部分が出るのは避けがたいが、80歳の老人の演奏とはとても思えない。なぜこんなテンポで弾くかと言えば、楽譜の指示に極力従いたかったからだと。これまた驚くべき証言だ。

彼が1977年に録音した「ハンマークラヴィーア・ソナタ」の演奏を、長年私は愛聴してきた。この作品は最も好きな曲に属するので、相当数の演奏家のCDを集めて聴いたが、どれか1枚と言われたら、このポリーニ旧盤を選ぶだろう。技巧は無論完璧、速さも相当なものだが、しかし、どことなく余裕があり、曲の構造・内容を完全に把握した上での演奏としか思えない。全4楽章どこを取ってもそうなのだ。これを書いたベートーヴェンも偉いが、ここまで弾きこなす演奏者にも敬意を払わずにはいられない。

ポリーニはバッハ作品では平均律の第1巻しか録音しなかったが、このCDも私の愛聴盤で、長年幾度も繰り返し聴き、楽しませてもらった。しかし、この演奏を「普通」だと言う評者がいることを知って驚いた。一体、どんな「耳」をしてるんだ?と思ってしまう。バッハの平均律を弾くのに、超絶技巧を駆使してバリバリ弾けとでも言いたいのか?冗談言っちゃいけない。ここでもポリーニは、曲に合った演奏スタイルを熟慮の末に選んでいるというのに、それが聞き取れないとは情けない。

このCDで私が特に感心するのは、静かな曲のさりげない始まり方だ。この「さりげなさ」には痺れる。それに、曲によっては彼の鼻歌みたいな声が微かに聞こえてくるのが愉しい。彼が演奏そのものを愉しんでいるのが良く分かるからだ(生演奏でも、観客席に聞こえるほど唸っていたけど)。

彼の平均律第2巻が、是非とも聴きたかった。彼がどんな弾き方をするか興味深い作品が何曲もあるので。哀切を極める第4番の前奏曲、それと対照的な激情的な同フーガ、または第20番のフーガなど。

また、彼が2017年(作品59~64)と2019年(作品55~58)に出したショパン晩年の作品集の見事な演奏にも触れた評者が少ないのが残念だ。これこそ、円熟の極みと言えるショパン演奏なのに。ここでは、超絶技巧など問題にもならず(無論、技巧上の不足はないが)、ただ作品の再生だけに心を込めた結果のみがここにある、と言う印象なのだ。ゆったりとした美しい響きが心地よい。また例えば作品61、いわゆる「幻想ポロネーズ」は、内容の複雑な難しい曲だと思うが、彼の演奏では曲の凄さだけが伝わってくる。彼のショパンは、やはり絶品だった。

人はいつかは死ぬから仕方がないが、こうしてCDが残り、彼の演奏を長く聴くことができる幸せを嚙みしめようと思う。彼の演奏は、私の人生にかけがえのない存在だった。

国際情勢のお勉強

定期購読している田中宇ニュース(https://tanakanews.com/index.html)で、最近の国際情勢について勉強している。まずは、ウクライナ情勢関連としては、3月31日付の「欧露冷戦の再開」(https://tanakanews.com/240331europ.php)と、4月2日付の「ロシア強化のため米国がやらせたモスクワのテロ」(https://tanakanews.com/240402crocus.htm)と言う記事がある。いずれも、国内マスコミには全然出てこない見解だ。

まず前者から。ウクライナ戦争はこれまでロシアとウクライナの戦いであり、欧米NATOは軍事支援するだけで直接戦争しないことになっていた。NATOと直接対決になると、条約の性格上、世界戦争に発展する可能性が高くなるからだ。しかしウクライナ軍の兵力不足が深刻化し、ポーランドエストニアラトビア・フランスが派兵する話が浮上している。もっとも、ポーランドはずっと以前から大規模に派兵していたけれど。この結果、ウクライナ戦争は欧州vsロシアの戦争に発展した。ただし全面的にではない。戦いの場はウクライナ限定なので。

もし完全な欧露戦争となれば、ロシアの爆撃機ポーランドその他の都市を攻撃することもミサイルが飛び交うこともあるはずだが、実際にはそんな状態には双方とも行きたくない。お互い、大怪我ないし致命傷を受けかねないからだ。無論、米国も。

一方で、戦争のエスカレートは起きている。これまで露軍はウクライナの軍事施設だけを攻撃し、民間施設をできるだけ攻撃しないことにしていたが、今回の転換で民間インフラを攻撃するようになり、ウクライナの半分が急に停電するようになった。

この転換と前後して、3月22日にモスクワのコンサート会場でテロ事件が起きた。これにも複雑な裏事情があったようだ。

日本の報道では明確ではないが、ウクライナ軍の崩壊は確実なようだ。英仏独のそれぞれが、別の形ではあるがその実情を認めている。だからこそ、欧州各国が派兵するのだ。

しかしNATO第5条の規約=加盟国の一つが外敵から攻撃されたら、NATO全体が攻撃されたのと同等とみなし、NATO全体が外敵に反撃するとの決まりがある。だから、そのまま行くとロシア対その他の全面対決になり世界戦争になり得るため、各国の派兵自体は非公式に行われてきたし、ドイツ政府はもっと弱気な解釈をして、極力、正式な「戦争」状態を回避してきた。

米国も同様で、ウクライナや欧州に戦争をやれとけしかけたくせに、自国が戦争に巻き込まれるのは御免で、足抜けしている。つまり、米国は口先だけ勇ましいが、いざとなると同盟諸国を守ってなどくれないのだ。今、欧州は自滅的な戦いを強いられている。つまり、このウクライナ戦争は、欧州を自滅させるために米露が組んでやっている戦争だというのが、田中氏の見立てなのだ。なんてこった。

今回、岸田首相が訪米して日米同盟をさらに強化するなどと約束してくるが、実際に中国と戦うなどとなったら、米国は、これまたさっさと足抜けするに違いない。日本の自衛隊と中国軍を戦わせて、実力を測るだろう。日米「同盟」など、幻想に過ぎない。実情は、米軍の下請けまたは身代わりにしかならないのだ。「属国」の悲しさだよなあ・・。

対米従属の独仏EUは、米国が認めない限り対露和解できない。本当は、和解してロシアから資源輸入を再開するのが最も国益に合うのに。それには、クリミアとドンバスの露による領土化を公式に認知し、事実上ウクライナ戦争の敗北を認めないといけないが、米国は認めないし欧州自身のメンツもあって、この妥協は容易にできないのだ。しかし戦線拡大はさらに傷口を広げるからダメだ。故に、欧露は対立したまま、冷戦状態のまま時が過ぎるはず。しかしそれはまた、欧州自滅への道である。世界の欧米支配が崩れ、政治経済ともに多極化と非米化が進む。日本も、他山の石とすべきである。

モスクワのテロについては、米国の手引きでウクライナ諜報機関イスラム過激派テロ組織ISIS-Kを使って引き起こした可能性が高いと言う。通常のイスラム過激派がテロを実行する際には、実行犯に「聖戦(テロ)をやると天国に行ける」と思い込ませて、死ぬことを怖がらせずに自爆テロをさせるものだが、今回の実行犯はカネ(25万ルーブルの成功報酬)で雇われたらしく、露当局に捕まっても抵抗せず、逮捕されて生き延びる道を選んでいる。この点でも今回のテロはこれまでと性格が違う。

田中宇氏曰く、ウクライナの諜報・軍事活動は、すべて米国(諜報界)に監視・誘導されている。今回のテロも、米国が命令ないし考案したものだ。実行犯の後ろにウクライナ諜報機関がおり、そのまた後ろに米諜報界がいる。黒幕は米国だ、と。

このテロはロシア国内を、米英ウクライナと闘う方向で結束させた。911ブッシュ政権が米国内を「テロとの闘い」で結束させたように。それじゃ、米国はなぜそんなことをさせるのかと言えば、米諜報界を牛耳るのが隠れ多極派であり、ロシアを強化して中国と結束させて、世界を多極化・非米化するのが彼らの目的なので、これで成功しているのだと。

国際情勢は、何とも摩訶不思議な世界ではある。国内の日本語報道だけでは、どうにも確実な理解はままならない感じだなあ。

トランスクリティークを読む

柄谷行人の「トランスクリティーク」をやっと読み終えた。500頁以上ある大作で内容もかなり高度だったので読むのに苦労したけど。彼のシリーズで言えば「探求」の第3作に当たる。探求Ⅰ、Ⅱは議論が抽象的で実に難しかったが、この第3作はそれよりは読みやすかった。それにしても、今思えば、この「探求」シリーズで、柄谷は確実に思索の実質的内容を深めて行ったのだと分かる。その「まとめ」として、この第3作がある。

この本の第1部「カント」、これはかなり難解だった。ここでも「超越的」と「超越論的」の違いが、議論の中心だ。これから派生して「主体と場所」「超越論的と横断的」「単独性と社会性」「自然と自由」などが議論される。ただし、カント思想の本分が示されるのは、第2部第4章「トランスクリティカルな対抗運動」における、世界平和に関する考察が出てくる箇所である。

第2部「マルクス」、こちらはまだ読みやすかった。一応全部読んだが、しかし、すっかり理解できたとは無論言い難い。特に第3章「価値形態と剰余価値」は、じっくりメモを取りながら再読しなければならない。例えば、経済的「価値」がどのように生まれるのか、それと「利潤」がどう違うのか、柄谷は違うと言うが、自分にはまだ理解できていない。この部分は、資本主義や「貨幣」の本質を理解するのにも欠かせないと言うのに。

また、暗号通貨とかデジタル円などを理解するにも必要な気がする。例えば、現状、年金も各種支払いも現金は一切使わず、通帳上の数字のやり取りだけで済んでいるから「円」って既に「デジタル化」されてんじゃないの?と思うのだが、今使われている「円」と「デジタル円」は少し違うらしい。TVの解説では分からなかった。この辺にも関係ありそう。

この本では、景気が良くなると賃金が上がるが、それと共に利潤率が低下して行くので、いずれ「恐慌」が起きて経済がリセットされる、と書いてある。今の日本は、株価が上がり賃上げの動きも急で、マスコミ等では、これまでのデフレを脱却して「好循環」が回るはずだとの楽観的見通しが盛んに語られているが、果たしてどうなのか・・?ドルも、一見好調そうに見えて、実はかなり危うい状況にあると「田中宇ニュース」では報じているし、この本で柄谷が言っていることが正しければ、いずれは株価暴落その他「恐慌」が起きることになる。どうやら、その蓋然性はかなり高そうだが、果たして・・?

柄谷が鋭いと思う例として、株や債券を扱う「金融工学」は「実体経済」とかけ離れた幻想だとの議論があるけれども、その「実体経済」と称するものも、おカネつまり「貨幣」の流れである限りにおいて「幻想」なのだと言う指摘だ。貨幣自体が、一種の形而上学、つまり、単なる金属や紙切れに「価値」が宿っているとする「神学」に依っているからだと。

こんな話、マスコミにはまず絶対出てこないだろうし、投資やら株価やらに血まなこになっている人間たちには、それこそ空論、夢物語に聞こえるだろうけれども、深く現実を見据えるなら、柄谷の言うことが正しいのだ。株や債券が一瞬にしてただの紙切れになってしまう瞬間というのが、現実に起こるからだ。

要約すると、この「トランスクリティーク」を読んで、カントとマルクスが偉いことは良く分かった。今の憲法(特に9条)にはカントの考えが入っているし、これからの資本主義克服への道筋は、マルクスが既に考えていた。この二人は、全然古くなどない。何も分かっていない奴に限って「マルクスなどもう古い」なんて言うわけ。今、若い学者たちもマルクスを読み直している。斎藤幸平や白井聡など。その前に、柄谷行人が深く読んでいた訳だが。

この本の続きとして彼の代表作「世界史の構造」が生まれ、さらに「帝国の構造」「哲学の起源」などが書かれたことは、よく理解できる。言わば、必然の成り行きなので。また一方、柳田国男に関する本(「世界史の実験」「遊動論」など)が書かれた意味も、これらを読んで初めて分かる。彼の考える「アソシエーション」の具体例が、柳田作品には現れているからだ。柳田の著作の裏に隠れている真の問題意識が、他の読者には分からずとも、柄谷にはひしひしと伝わっていたのだろう。

今のところ、未読の柄谷本として「哲学の起源」と「憲法の無意識」が次の読書対象候補になっている。文芸批評の類、例えば「日本近代文学の起源」などは、少し遅れそうだ。その前に読むべき、または読みたい本が多いので。