今日もあれこれと

大相撲のこと:昨日の豊昇龍が大の里をブン投げた一番は鮮やかだったなあ。決まり手は下手投げだが、足を使って跳ね上げているので「掛け投げ」に近い。柔道の「一本」みたい。もっとも、彼はその前日に高安の投げを食らって土俵に叩きつけられて屈辱を味わっているからな。これで2敗が一人、3敗が6人の大混戦になった。

普通は大関琴櫻が本命でないといけないが、今場所は引き技が多くてイマイチ安定感がない。今の平幕2敗・3敗勢は、これから上位と当てられて星を落とすはずだが、誰が生き残るか?今は圏外の高安や豊昇龍に負ける奴も出てくるだろう。現状では、幕内上位は誰が勝つか予想も出来ん。いやあ、今場所も面白い。朝の山と尊富士、今は十両の若隆景・伯桜鵬が戻ってきたら、また興味が増す。ボロい横綱大関が休場でいなくても十分面白いわ。

裁判のこと:袴田事件が結審。検察は相も変わらず死刑の求刑だが、論理が破綻しているのに酷い話だ。そもそも「疑わしきは罰せず」の原則に則り、袴田氏が犯人だと確定できる証拠がない限り死刑などには出来ないはずなのに、単なる状況証拠と無理やりさせた自白証拠とあとは推測だけで死刑というのは、法の精神に悖る。一体、彼らの精神構造はどうなっているのか?警察・検察の「メンツ」だけで一人の人間を死刑にさせるというのが許せない。自分がその立場に立たされたらどんな気がするか、考えてみるが良い。

味噌樽から出てきた衣類の血痕の赤みがどうのこうの、で死刑が決まるのか?これがまた解せない。普通に考えて1年以上も浸かっていたら赤みが消えるのが当然だが、万が一赤みが残っていたからどうだというのか?それが巌氏が犯人だとする決定的証拠になるとの根拠にはならないのに。サイズも合わないし。とにかく、検察の無茶苦茶な論理には驚く。こんなバカな話がまかり通るようでは、日本国の将来は暗い。法と裁判所が国民を護ってくれないのだから。

身近なことから社会を考える:透析病院のスタッフが一人辞めることになった。腕の良さを買っていた人だったので残念だ。子供の都合で勤務時間をパートに変更させてもらいたかったが、正規勤務でないと雇えないとのことらしい。まだまだ、子育てママに対する支援が出来ていない。「決まりだから」みたいな杓子定規な対応に腹が立つ。子供が熱を出して急に出勤できなくなる、なんてのは普通にあるんだから、みんなでそれを支える体制こそが大事なのに。日本社会は、まだ弱者に対して冷たいよな。

子育て支援」のかけ声だけは勇ましいが、どうも中身がない。育児手当とか出産一時金とか、ばら撒くだけでは十分でない。結婚して子供を生み育てる条件整備が必要なはずだ。特に子供を抱えて働く母親に対する配慮が要る。

関連して、国民年金の専業主婦層、つまり「3号受給者」への風当たりが強いのもどうかと思う。国勢調査でもそうだが、無職無収入の主婦は「少しも仕事をしなかった人」に該当する。しかしこの書き方は実に酷い。つまり収入を伴う仕事だけが「仕事」で、収入を伴わないと仕事に認められないわけだ。しかし実際には主婦の「無償労働」は、相当な労働量に相当する。家事・育児・介護などなど。実際、これらを家政婦や各種ワーカーに頼んでやってもらったら、どんな金額になるやら。

要するに、カネの出入りだけでしかモノを考えないからこんなことになる。「3号受給者」関連の議論は、無償労働の実態をしっかり解明してからにしてもらいたい。

今日もあれこれと

18・19の集中講義を終えてホッと一息。でもさすがに少し疲れたみたいで、風呂では湯船で寝入ってしまい配偶者にたたき起こされるし、腹具合もイマイチで体調不良だったが、今朝は良く眠れて人心地ついた。やはり元気なのが一番だ。

今日締切の宝島社原稿ゲラ校正を先ほど送り、やっと終了。来月14日には発売というから仕事が早い。その分、かなり急がされたけど(ゲラが届いて3日以内に返送してくれ、とか)。本が出版されたら、読んで欲しい人たちに配れたらいいんだが。最近の出版社はケチで、献本数少ないからなあ。まあ今回は、政府の水素政策を完膚なきまでにこき下ろしてやったので気分は良いが、原稿の最後に書いたように、それだけでは不足で、国のエネルギー政策がマトモになって欲しいと言うのが真意なのだ。

今回の集中講義は受講者が10名しかおらず、大半が50歳以上で若者がほとんどいなかった。でも参加者は皆熱心に聞いてくれて、レポートも良いものが多かった。次回も聞きたいと言う人さえいた。となると、また少しは内容改訂しないとなあ。実際、今回も講義しながら「ここはもう少し変えたい」という部分あったから、それが次回(12月)の宿題。

国際情勢:イランのヘリ墜落、何となく怪しい気がする。単なる事故にしては話が良く出来すぎてる。もし「陰謀」なら、犯人は国内の反対勢力か米・イスラエルのはずだが、早速イスラエルは「オレっち関係ねえし」と言っている。一番怪しまれるのを知っているからな。実際、米・イスラエルが首謀者だと分かったらタダでは済まないリスクが大きいので、そう簡単にやれるとは思えないわけなんだが。

それにしても三機飛んだうち、よりによって大統領たちが乗った機体だけ落ちるって、都合よすぎる感は否めない。何で、あんな危ない条件下で飛んだのかも解せないし。これもすべて「神の思し召し」だってか?そりゃ無いよなあ。

国内政治:自民党の裏金改正案、あれで通用すると本気で思っているのかな?連中の危機感のなさ・鈍感さには呆れる他ない。やはり、国会で絶対多数を持っている驕りが、どうしても抜けないんだな。安倍政権以来、好き放題やってきたが、いよいよ国民に愛想をつかされる時が来た。もう一度野党に成り下がって、出直すしかないだろう。彼らも野党時代には結構良いことも言っていたし(後で「ブーメラン」になった発言が多いけど)。

自分のこと:高校の同窓会誌が届き、楽しく読んだ。母校意識があるのは高校と学部時代の大学だけで、小・中と大学院での大学には母校意識がほぼない。多分理由はあって、小・中はどちらも途中で転校してしまったので中途半端な思い出しかないのと、特に中学では転校先が転校生に冷たい学校だった(率先して転校生に厳しい教師がいた!生徒も全体に冷たかった。幸い、担任はそうでなかったけど)ので、良い思い出が少ないからだ。高校に入学したときの解放感は、今も忘れられない。大学院については、今回は省略。

私の入った高校は県内第一の進学校で、言わば「出来る子」だけの集団だったこともあり、多士済々と言うか個性的な生徒がたくさんいて面白かった。当時は女子が少なく、全10クラス中、共学は4クラスしかなかった。その共学でも40数人中、女子は10名台しかいなかった。当然ながら多くの男子は共学クラスに在籍するのを渇望していたが、例えば私は2年次の1回しか共学クラスに当たらなかった。でもこの2年次が一番楽しかったのも事実だ。むろん、1年次は高校生活に慣れるのが大変だったし、3年次にはもはや受験勉強一色で学友に目を向ける余裕もなかったから無理もないのだが。

当時この高校に来る女子と言うのは、中学時代によほど成績優秀な子に限られていて、少数精鋭と言うか、全体にしっかりした性格の女子が多かったと思う。美人も結構いて、特に一つ上の学年に、見とれるような見目麗しい先輩が多くいた。正に才色兼備。まあ、我々後輩の小僧たちからは「高嶺の花」だったわけだが。

今回の同窓会誌には、1987(S62)年から1992(H4)年までの6年間だけ、女子だけのクラス、通称「女クラ」があったと当時の在籍者が書いている。その6年間は、男子だけ・女子だけ・共学の3クラスが混在していた。何故、そうしたのかは当人たちにも謎だそうだが。その後は、普通科は全部共学クラスになった。私の在学時代には考えられなかったほど、女子入学者が増えたわけだ。

それにしても、今年の卒業生代表の女子は、写真で見てもキリリとした「しっかり者」の印象で、本校の伝統を受け継いでいるのが良く分かって頼もしかった。女子の制服も変わっていないようだ。あの制服は、当時から色・デザインともに斬新でカッコ良かった。

ただし私が高校に入った頃、制服着用義務を廃止せよという「着装自由化」運動が起こっていた。体育館に全員が集まって教員たちと「団体交渉」するなど、一種の学生運動だった。先輩たち学生代表の理路整然とした議論に聞き惚れたものだった。当時の騒然とした状況の下で、その年の11月に三島由紀夫の割腹事件が起きたのが印象に残っている。

生徒たちが求めたのは、制服廃止ではなく、着る着ないを選べる自由が欲しいと言うことだった。今で言う「選択的別姓」みたいなものだが、これを理解してもらうまでに結構な時間がかかった。そしてとうとう、生徒たちの要求が通り、我が母校は着装自由化となった。今もそうであるらしく、制服私服どちらを着ても良い。女子の制服はカッコ良かったので、自由化後も着ている生徒が多かったし、今回写真が載っている女子も制服を着ている。私自身も、私服を選ぶのが面倒くさく、たいてい学ラン(制服)で通っていた。

ただし残念だったのは、それを認めてくれた校長や指導主事が、翌年の人事異動で明らかに格下とされる高校に転任になったことだった。あれは一種の報復人事だと、皆が思った。保守的な考え方の人たちにとっては、制服着用を自由化するなどもっての外、と言う意見が強く、それを許した教員たちが憎かったに違いない。しかし我々卒業生は、当時の校長・指導主事たちが誠実に生徒に向き合い、真剣に考えてくれた事実を決して忘れない。

「哲学の起源」と「ギリシアの哲学たち」を読む

柄谷行人「哲学の起源」は、従来のギリシャ哲学観をひっくり返すような本だ。プラトンソクラテス直系の思想家と見なすのではなく、ソクラテス自身はイオニア精神の復権つまりイソノミア(無支配)を目指したのに対し、プラトンはそれに反対し、アテネにデモクラシーをもたらしたイオニアの精神を駆逐することを生涯の課題とした、と言う。

それはイオニア派が神々の批判によって見出した「運動する物質」という考えを否定し、「魂による物質の支配」という考えを確立することである。それはまさに「神学」の構築だった。しかも、彼はそのような仕事を一貫して「ソクラテス」の名において果たした。その結果、プラトン以来、「哲学の起源」はソクラテスにあると見なされるにいたった。

しかし、柄谷によれば、ソクラテスイオニアの思想と政治を回復しようとした最後の人であり、プラトンとは明確に一線を引くべきだと言う話になる。

これがこの本の結論なのだが、そこでこの本の前半は第1章イオニアの社会と思想、第2章イオニア自然哲学の背景、第3章イオニア自然哲学の特質と、イオニアの精神についての解説に割かれる。ヒポクラテスヘロドトスホメロス、ヘシオドスなどが出てくる。第3章で「運動する物質」についての議論が紹介される。次が第4章イオニア没落後の思想で、ピタゴラスヘラクレイトスパルメニデスデモクリトスらが出てくる。この辺、実に面白い。特に、プラトンに強い影響を与えたパルメニデスの思想が興味深い。

第5章アテネ帝国とソクラテスでやっと本論に達し、上記の結論が導かれるわけだ。

実は、私はプラトンに長年惹かれ続けていたので、柄谷のプラトン観を全面的に受け入れるには少しプラトン贔屓に傾き過ぎているとの自覚がある。しかし柄谷の議論には圧倒的な説得力も感じる。多分、柄谷の意見が正しいと思うが、しかし一方、何とかしてプラトン擁護の議論も展開できないものか・・?

そのヒントになりそうなのが「ギリシアの哲学者たち」だった。この本は英国オックスフォード大学のギリシア哲学の大御所・ガスリー教授によって1950年に出された古典的な本だ。この本は長年読み継がれ多くの版を重ねた名著だとのことだ。この本を手に入れたのは2011年、名古屋の古本屋でのこと。今はこの古書店はなくなった。

長く本棚に埋もれていたが「哲学の起源」を読んだ後、急に気になって読むことにしたのだった。最初の「ギリシア的思考の特質」が面白く、次いで関心のあったイオニア派とピタゴラス派の解説が興味深かった。そして例の「運動の問題」が現れ、ヘラクレイトスパルメニデス、多元論者たちの解説がある。次に「人間主義の反動」としてソフィストソクラテスが出てくる。ここでのソクラテスは言わば伝統的な扱いで、衆愚政治を招くソフィストたちに立ち向かう人として描かれる。これはこれで正しい扱いだと思う。次いでプラトンアリストテレスに2章ずつが割かれ、この二人の存在が極めて大きいものだと実感させられる。しかし読んでみると、この著者の共感はプラトンに強く傾いており、アリストテレスには少し厳しい感じだ。そして、この姿勢に私は大いに賛同する。

私見では、アリストテレスは世にもて囃され過ぎだ。彼の観察、意見はしばしば間違っていたからだ。例えば「生物は自然発生する」とか、羽毛と石の落下比較から「重いものほど早く落ちる」法則を導いたり・・。アリストテレスの間違った教説が、キリスト教神学と結びついて中世ヨーロッパを長く支配し、ルネッサンス期まで続いたことを考えたら良い。彼がもう少し科学的な考えを抱けていたら、例えば大きい石と小さい石を高所から落として、ほぼ同時に落下する現象を観察できただろうに。そういうことを後になって愚直に実験したのがガリレオ・ガリレイで、ルネサンス以後の自然科学はそこから始まるわけだ。

それに、アリストテレスの議論には、論理的に辻褄が合わない点が散見される。例えば「徳とは魂の正しい状態である」と述べていながら、「探求の目的は、徳とは何かを知ることにあるのではなく、我々が有徳になることである」って、おかしいだろう。徳とは何かを知らないのに「有徳」であることを、どうして知ることが出来るのか・・?この種の論理的矛盾はあちこちにあり、種々の論点で無矛盾を目指して徹底的に考え詰めたプラトンとの違いが明確になる。そしてアリストテレスは矛盾を覆い隠すために、長々と難解な議論を続けることになる。そして込み入った議論の森の中で、論点の道がどこかに見失われる、との印象を免れがたい。やはり私は、プラトンの思考の徹底性さに惹かれるのだ。

こうして私は、プラトン擁護の立場を堅持し、まだ全部を読んでいない「プラトン全集」を完読するとともに、関連研究書など、もっと読みふけりたいと思う。

電力不足問題?とリニア

エネルギー基本計画で、またぞろ「電力需給逼迫の見通し」が出てきた。しかしこれは操作された情報である可能性が高いと思う。統計データで見る限り、日本の電力設備容量は十分あって、その値と発電実績で見た「設備稼働率」は平均で50%以下、つまり半分以上は余っている計算になるからだ。

「日本国勢図会」各年版にある、全発電設備容量(千kW)が24時間365日稼働したときの発電量(=理論上の最大限発電量)と、実績として出ている全発電電力量(百万kWh)を比べてみると、1990年だけ50.3%で他は45~48%、2020年などは36.3%に過ぎない。すなわち、大半の発電設備は、フル稼働からほど遠い。むろん、太陽光や風力など再エネ系は設備稼働率が15~23%程度と低く、これはその特性上やむを得ないのだが、主力である火力発電の稼働率が軒並み50%を切っている。

「最大需要電力発生時の供給状況」という統計データも載っており、それによると電力供給の予備率は2018~2020年に夏(7~9月)では11.8~14.2%、夏(12~2月)では9.0~15.0%となっている。つまり、夏冬のピーク負荷時の逼迫率も、統計上では10%を割ることが少ないことが分かる。

3.11以後、原発が全停止して電力不足になると言われたが、実際にはならなかった。当時原発は電力の20%近くを占めていたが、他の電力で何とかカバーでき、それ以後も原発の寄与は小さいままだが電力不足にはなっていない。

故に今の日本では、電力不足で停電になる危険率はかなり低いはずだ。ところが政府やマスコミは電力が足りなくなるとの大宣伝。これは要するに、原発を増やすための口実だろう。

電力需要そのものが長期低落傾向なのに、これからはデジタル化が進んで需要が急増するなんて言っているが、これはかなり眉唾もの。

もし電力が本当に足りなくなりそうなら、石炭火力発電所を増設するか既設施設の稼働率を上げたら良い。私の考えでは「脱炭素」なんてナンセンスなので、普通に一番安い石炭火力を使えば良いのだ。日本では電力の約20%が石炭火力だが、大気汚染など起きていない。排ガス処理をきちんとやっているからだ。世界の3%しかCO2を出していない日本が多少の石炭を使っても、罰が当たるいわれはないし。

リニア工事で水涸れする問題、いよいよ表面に出てきた。山梨県でも実際には実験線沿いで水涸れが起きていたのに表に出ていなかったが、岐阜県では影響範囲が広いので隠しきれなかった。今後工事が進めば、もっと難しい破砕帯でのトンネル工事が始まるから、水涸れその他の問題がさらに顕在化する。

戦前の黒部第3ダム建設や丹那トンネル工事などで、特に現地が水涸れや熱水噴出など「水」に関して現場の担当者たちがとてつもない苦労をしたことが吉村昭の小説などに出てくる。これらの本を、今一度読み返すが良い。自然の厳しさは今も昔も変わらない。土木技術が多少進歩したとしても、困難度は大差ないのだ。自然を甘く見ない方が良い。人間の力など髙が知れている。何だか、技術が進めば何でも解決できると錯覚する人間が多すぎないかな・・?

また、岐阜のあたりは掘った土の中にウランが結構含まれる見通が高いので、残土の行き場にもいずれ困るはず。今後、品川や名古屋など都市部での大深度工事でも弊害が種々出てくるだろう。静岡工区だけが悪者になり、川勝前知事だけ袋叩きになったが、大井川の水涸れなども、これから現実問題として目の前に現れるはずだ。今後の展開が見もの。

今日もあれこれと

土日弾丸ツアーで疲れたが、昨日はゆっくり休んだのでかなり回復。

週末の集中講義の配付資料原版を届けてきて、やっと一安心。これをノートパソコンに入れて透析中に予習する。・・と思ってたら、宝島社の原稿ゲラが届き、今週金曜日までに赤を入れて返却をと言うから、こっちも大至急だ。これも明日の透析中の仕事になる。

他にも審査依頼の文書が4件あり、こちらの期限は今月28日だから少し間があるが、数日前になると催促メールが来るから早めに手をつけとかないと・・。こっちは守秘義務があるから透析医院には持って行かない。申請書は1件数十頁もあるので読むだけでも結構な労力だ。どれも良さげなことを書いてあるから、どこが長所で短所か正確に見抜けないと。申請者たちは大半大学の研究者で、資金を獲得するために必死なのは読めば分かる。しかし研究には優劣がある。ここの評価は客観的に冷徹に行わないといけない。

まあ、多少面倒だが、最先端でどんな研究が試みられているのかを知るチャンスでもある(守秘義務があるので中身は口外できないけど)。ただ気になるのは、最近多いのは国策に沿っただけのつまんない研究申請が多いこと。おや、これは?と思わせる研究が少ない。環境・エネルギー関連研究では、無理もない点もあるのだが。何しろ、この分野では画期的なブレークスルーなど何十年も起きていないので。技術が華やかに進歩しているように見えるのはAIなどIT関連だけだ。しかしAIがいくら進んでも「食う」には役立たない。VRなど、文字通り「仮想的」空間に過ぎず、現実での有効性だけが意味を持つ環境・エネルギーの分野では、ほとんど役に立たないのだ。

「オルタ広場」でボツにされた原稿が、別のサイト(http://tandtresearchinc.blog.fc2.com/blog-entry-290.html#more)に載せてもらえた。少しスッキリした。言いたいことがネットに載ったので。このサイト、知名度は「アゴラ」や「オルト広場」より小さいが、ネットに載れば誰かが読むから、出ないよりマシ。

河原理子著「フランクル『夜と霧』への旅」という本を読んだ。良い本だった。「夜と霧」は以前にも触れたが、私の学生時代の読書中、最大のインパクトを受けた書だったので、この本がどんな風に読まれてきたのを知りたかった。その期待には十分応えてくれた。

「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに期待することをやめない」

なんて深くて力強い言葉だろう。フランクルの思想はこの言葉に集約されるが、その根拠がナチの収容所体験だったことを思えば、生半可な覚悟で言えるものではない。だから彼の言葉には強靱さがあり、容易には崩れない。

以前にも書いたが、人生に「意味」を求めても虚しいだけだ。生きていること自体に意味があると考える方が良い。生きていること自体が「奇跡」なのであるから。

経済成長と共に人の欲望は膨らみ「すべてに意味はない」とするニヒリズムが深まった。実際には多くの場合、何もかもをおカネの価値で見積もる「経済至上主義」の裏返しに過ぎず、カネ儲けだけが全て、他には意味はないとする考え方だ。しかし、これほど虚しい考えはない。なぜなら、貨幣の価値と言うものは、人がそれに価値があるとする「信用」だけで成り立っている「幻想」に過ぎないからだ。確かに、その信用が生きている間は、何でも好きなものが買えるから実在価値があるように思えるが、無人島ではおカネなど何の役にも立たず、災害時や空腹時にもおカネを積んでも欲しいものが入手できるとは限らない。その時には、貨幣の「信用」が崩壊してしまう。これが「幻想」であることが現実に分かってしまうのだ。

ニヒリズムの克服問題は、今に始まったことではない。大昔から、少しモノを考える人間が出てくると、必ずある種のニヒリズムが出現する。古代ギリシャ、インド、中国、どこでも「諸子百家」の論争時代があり、その中に必ずニヒリズム的思想が現れたことでも分かる。そして、ギリシャプラトン、インドの仏陀、中国の孔子らのような賢人たちは、必ずそれらニヒリズムを遠ざける知恵をあみ出して行った。おそらく、メソポタミアやエジプトでも、似たような状況があったはずだが、記録が残っていないので確かめようもない。

フランクル思想の実践として「ロゴセラピー」と言う心理療法があるそうなので、その道の権威である勝田芽生の著書を次に読むことにしよう。

ああそうだ、今日は上の孫の誕生日だった。ライン電話でもしてみるか・・?

政治や経済あれこれと

今回の環境省聞く耳持たず」の件、たまたまTVに出たので騒ぎになったが、日本政府が国民の声を聞く気がないことは、今に始まったことではない。水俣などは「被害者の声を聞く会」を開いただけでもマシなくらいだ(マイク切りが不当なことはもちろんだが)。現状、原爆の被爆者や福島事故の避難者なども、ほとんど声を聞いてさえもらえていない現実がある。首相と被爆者団体の面会も、ほんの形だけのセレモニーに過ぎない。

先月、岸田首相が米国で行った英語演説を日本語に直訳したら、多くの日本人は驚くはずだ。「自衛隊は米軍と一緒に中露と闘います」って言っているのに近いから。そんなこと、いつ決めたんだ?ふざけんなよ!と多くの人は思うはずだ。これをキチンと伝えない大手メディアも全然なってないけど。安全保障・軍事関係では特にそうだが、ロクに議論もせず「閣議決定」で何でも決めてしまう。国民はこれにノーを突きつけないといけない。

環境省の件に限らず、日本の役人には「公僕意識」が薄い。これは江戸時代から変わっていない。「お上」意識が強くて、民間人・一般人を一段低く見る態度だ。「官尊民卑」と言う四字熟語がちゃんとあるんだから間違いない。「上級国民」という言葉もある。

昔話になるが、かつて研究者への進路が難しければ公務員試験でも受けるしかないかと考え、行くなら環境庁(当時)に行って仕事をしようと思っていたものだった。研究室の後輩は、実際にそう進んだ(後に途中で退職し大学勤務になったが)。幸いにして、博士課程が終わってそのまま助手に拾ってもらったので、公務員試験は受けずに済んだけど。

その、一時は憧れた環境省は、今ではすっかり情けない役所になってしまった。IPCCの言うままに地球温暖化説なんぞ信奉しやがって。少しは骨のある役人はいないものか・・?これも安倍政権以来、人事権を官邸に握られている弊害だろう。正論を言う役人が排除されるケースを幾つも耳にするしな。難しい試験をくぐり抜けた秀才が多いのに。

城山三郎官僚たちの夏」に描かれるような官僚像は、今は昔なんだろうけれど、外務官僚には天木直人や孫崎亨、文科省には前川喜平のような、骨のある人物が確かにいた。しかし彼らは政府に楯突いたために職を追われ、今は政府批判的な言論人としてある。私は彼らを陰ながら応援し、もし出来ることがあれば力になりたいと思う。

「グローバル経済史入門」という岩波新書を読んだ。良い勉強になった。世界の歴史を経済から見ることは有用だ。実際、世の中の動きというのは、多くは経済活動の原因や結果であることが多いから。例えば、1930年代の高橋財政は、軍需関連産業を中心とした軍事費の拡大により不況からの脱却を図り、その財源として赤字国債の発行とその日銀引き受けという「禁じ手」が敢行された。それで赤字国債の発行に歯止めが掛からなくなったので、戦後の財政法では、日銀引き受けによる赤字国債の発行が禁止されたとある。しかし今はどうだ?その、違法行為(=日銀引き受けによる赤字国債の発行)が堂々と何の不思議もないように行われている。一体これはどういうことなんだ・・?政府自ら、法律違反を堂々と行っている「法治国家」って・・?世の中には不可解なことが多い。まだまだ、勉強すべきことが多いと言うことだ。

大型連休は明けたが・・

大型連休なんて言ってたが、どうと言うこともなく過ぎた。何せこちらは29、3、6日と休日を3日も透析に費やしているので変わりようもない。春のお祭りの間は近所が騒がしかった。最終日の5日夜など、10時半を過ぎても騒いでいたので、苦情電話かけてやろうとしたが宛先が分からなかった。ヤフーの書き込みなど見ても、市内のあちこちで困っている様子が分かる。

今月は11~12日の法事旅行と18~19日の集中講義が二大行事。集中講義の資料作成は今週中が目処なので8、9日は主にそれに充てる。既に4回目なので前のスライドをそのまま使ってもやれるのだけど、その後の勉強内容を加えたいのでつい頑張ってしまう。

今の関心事は「グリーン成長」批判。再エネ等の脱炭素政策で本当に経済成長などが可能になるのか?と言う疑問への解答を探る試みだ。それには、そもそも経済成長とは何か?それを支える経済的「価値」はどのようにして生まれるのか?と言った、経済学の基本的概念をしっかり理解する必要がある。「グリーン成長論者」たちの議論の、どこが間違いなのかを、明確化したい。それにはやはり、柄谷のマルクス論が役に立つ。

今読んでいる「グローバル経済史入門」(岩波新書)という本も勉強になる。歴史を振り返ると、昔にも今と類似の状況が起きている。もちろん相違点も多々あるのだけれど。これらを学ぶことで今後への展望を考えやすくなることは確かだ。柄谷行人の考察も、歴史的事実をしっかり踏まえてのものが多い。

現時点での私の理解は以下の通り:

商人資本や金貸し資本は結局、大きなおカネを動かす産業資本に吸収され、さらに巨大な金融資本に成長した。産業革命以後、安価なエネルギーを使って重化学工業が発展した国が大きな経済成長を遂げる。つまり技術革新によって差異=剰余価値を求める方式が主流だった。しかし技術進歩は無限でないので、やがて停滞することになり、現にある差異から剰余価値を得る方向にシフトする。具体的には、産業資本に投資するより海外投資や金融投資に向かう。製造業が成長できなくなった国ではどこでも、資本は海外あるいは「フロンティア」に向かう。この「グローバリゼーション」の特徴は、金融資本への規制の解除、社会福祉の削減、資本の税や規制の縮小=規制緩和、すなわち後期資本主義の行き着いた末の姿としての「新自由主義」そのものであり、今の日本にもそっくりそのまま当てはまる。

「フロンティア」として以前は中国、インドなどだったが、今はこれらの国ではなく東南アジアやアフリカ諸国が対象だ。そこが尽きると地球上には「フロンティア」は無くなる。それで「宇宙」や「深海」などが新たな「フロンティア」となって、投資家からは熱い視線を向けられるに至っている。しかし、本当の「フロンティア」は投資に見合ったリターン=利潤をもたらすものであるが、宇宙や深海から投資に見合った利潤が得られるとはとても思えない。つまり「幻想」としての「フロンティア」。脱炭素による「グリーン成長」にも似た感想を抱く。

新自由主義の下では、資本が海外に向かい、国民=ネーションを切り捨てる方向に向かう。この時、「資本=ネーション(国民)=国家(ステート)」の近代世界システムを支えた三位一体体制が崩れる方向に向かう。

しかし、独占資本=国家がネーション(国民)を犠牲にしようとすると、しばしば大きな抵抗が生じる。それで昔から労働者・農民を保護する政策も模索された:米国では「ニュー・ディール政策」、ドイツ・日本などではファシズムの形で。例えばドイツのナチスは「国民社会主義ドイツ労働者党」であり、極右であるナチは、労働者や農民から大きな支持を受けたのだ。マルクス主義でも類似で、ロシアでは結局ボルシェビキプロレタリア独裁主義へ、中国では毛沢東の下で文化大革命などの不毛な「改革主義」に向かい、結局は建設的な動きにはならなかった。右も左も、極端化すると不毛で殺伐化し、碌な結果を生んでいない。

確かに、金融資本を規制し、富を再配分し、労働者=消費者を保護することで購買力を上げ、内需を拡大することが必要なはずだ。これを岩盤から支える理論が要る(私の中ではまだ出来ていないけれど)。これらは現在の新自由主義とは真っ向から反する考え方なので、今の日本では多数派でない。しかし後期資本主義が行き着いた後に、向かうべき方向はこれであるはずだとの確信はある。私が願うだけではなく、上記のように、新自由主義自体が、後期資本主義を壊す方向に働くからだ。資本主義が消えても社会や経済活動が無くなるのではない点が大切。

今後、資源が枯渇し人口も減って労働力=消費者も減って資本が増殖できなくなると、生き残りをかけて各国の資本=国家が死闘を繰り返し、第3次世界大戦になる可能性を否定できないが、これを避けるとすれば、憲法第九条の精神、つまり武力行使なしで紛争を解決する考えを世界で共有するしかないはずだ。もはや武力では何事も解決しない。

最近、仕事場ではウゴルスカヤと言う人が弾くバッハの平均律をBGM代わりによくかける。第1巻と第2巻両方を交互に聴いているけど、どちらもなかなか良い。彼女のゆったりとしたテンポ、深々と響く低音が心地よい。惜しいことにこのピアニストは40代でガンで亡くなってしまった。実演を聴いてみたかったなあ。彼女はあまり世に知られずに亡くなってしまったが、録音が残っているのが有難い。