「美」について

「美」とは何だろうか?「美」は人によって受け取り方が違う、という点では極めて個人的・主観的な感受性の問題として扱われがちであるが、しかし一方、対象によっては相当多くの人が美しいと感じるもの・作品等があり、その意味ではある程度の普遍性・社会性を備えている。もちろん、誰か「権威」のある人が褒めたり、多くの人が美しいというから美しいと思い込んでいる例もあるだろうけれど。

私自身の例で言えば、若い頃からゴッホピカソやクレーの絵には「美」を感じていたが、一方で例えばセザンヌの作品には正直言ってそれ程の美は感じていなかった。しかしある時、セザンヌの絵を見ていて突然、ああそうか・・という感じでセザンヌの美しさが実感できた。その後は、セザンヌ作品の多くに強く「美」を感じることができ、断然好きになった。

絵だけでなく仏像などの彫刻や建築物、夕焼け空などの風景、あるいは人物像などでも美を感じることはある。スポーツあるいはダンスやバレエなどの「動き」にも美はあるし、目に写る映像の中で何らか「美しさ」を感じる場面はたくさんある。道端に咲く一輪の花にも、人は美を感じるものだ。

むろん耳から入る情報に「美」を感じることも多い。単純な和音でさえも耳に心地よく、幼い日のモーツアルトは、何も知らずにピアノの鍵盤を叩いて気に入る和音を見つけ出すと大喜びしたそうだ。音楽作品の美しさは、必ずしも綺麗な和音でなくても、不協和音に美を感じることだってある。爆音ヘビーメタルにも美は存在すると私は確信している。

人が何かを見たり聴いたりして「美しい」と感じるとき、その人の中にはある種の快感あるいは喜び・嬉しさの感情が起きていることが多いはずだ。むろん、美を感じさせるもの全てが甘美なわけではなく、苦さや痛みを感じさせる「美」もないわけではない。例えば「21世紀のバグ男」と呼ばれる大竹伸朗のハチャメチャな作品は、多くの人にとって美を感じさせるのは難しいと思うが、私はその中に一種の美を感じる。しかしそれは、やや苦味を含んだ美である。

片や、私は各種の「現代アート」と呼ばれる作品や、あるいはコシノヒロコの水玉模様の作品群には、ほとんど美を感じない。美しいと感じないのだから仕方がない。

あるアーティストが、美術展に便器を「花瓶」と言う題で出展したことがあるそうだ。これは一種の「皮肉=アイロニー」なのかも知れないが、ある種、「美」の二面性を鋭く演出して見せた例かも知れない。つまり、便器と言えども「美しい」作品だと思えるなら、それは美しい芸術作品にも見えるから純粋に個人的・主観的な受け取り方の問題である一方、常識的には便器に「美」を感じる感受性は何か常軌を逸していると考えるのが普通で、その意味では普遍性・社会性を備えている。

数理的な言い方をすれば、美に関する感受性は、ある種の確率的分布で拡がっていると言えるだろう。つまり、誰もが美しいと思えるものを中心のピークとして、それから離れるほどに美しいと感じる人が減って行く有様は、正規分布曲線に近いのではあるまいか?

プラトンが美の「イデア」を考えたのには、おそらく理由がある。多くの人は、そんなイデアなど実在しないから無意味だと考えがちだが、私の考えでは、イデアが実在するかどうかなど、プラトンは問題にしていなかった。美を考えるときの何らかの基準・規範として「美のイデア」を考えたに違いないからだ。その場合の基本モデルは、輝ける太陽だったような気がする。

人間は美しいものに目を奪われる一方、醜いもの・惨たらしいものからは目を背けるものだ。その典型例は人間の死体であって、今でもニュース画面で死体は明瞭に写らない工夫が為されている。昔から、死と太陽は直視できないものの典型とされてきたので、美と醜の極致はどちらもしっかりと直視できないのかも知れない。死を美化する考え方は、その意味でも倒錯的だと言える。

以前にも、芸術によって人生を救われた話を書いたが、私にとって「美しさ」は、生きる意味を与えてくれたものの大事な一つではある。こう言うものを味わえる間は、人生は生きるに値する、と強く実感させてくれたからだ。それらの、全ての美しいものたちに、私は心からの感謝の念を捧げたい。