大学入試の「女子枠」に反対する

京都大学が2026年度春の入学者向け入試から、理系2学部の総合型・学校推薦型選抜で「女子枠」を計39人分設けると発表した。枠の内訳は理学部15人、工学部24人。その分、一般選抜の募集人数を減らして対応するとのこと。

現在、学部生の女性比率は理学部7.9%、工学部10.1%だが、女子枠を設けることでこの比率を15%程度まで増やしたいのだそうだ。

京大総長は「女性が理工系に向いていないというのは幻想」と言ったそうだが、私はこれに賛成だ。しかし、入試に「女子枠」を設けることに賛成しない。大学入試は、あくまでも実力だけで合否を決めるべきで、性別を指標にしてはならないからだ。これは一種の「逆男女差別」にしかならない。現に、一般選抜の募集枠が減らされて、本来合格していたはずの受験生が締め出されることになる。その大半は男子学生のはずだ。我が母校が、そんな決定をしたことは残念でならない。女なら少々学力が劣っても京大に入れたいとでも言いたいのか?冗談言っちゃいけない。女をバカするな。

私が京大の学生だった頃、在籍していた化学工学科には女子は残念ながら一人もいなかった。一人でも女子学生が居れば、教室の雰囲気も少しは変わっていたかも知れないが、仕方がない。4年時に配属された研究室にも女子学生は一人もいなかった。一方、薬学部では女子学生の方が多く、男子は小さくなっていたらしい。これらは志願者数と、それに比例する合格者数の反映なので、いかんともし難いのだ。この比率を入試制度の改変で変えようとするのは、邪道である。それじゃ逆に、薬学部に男子を増やすために「男子枠」を作るのか?そんなの、誰もやらないくせに。もちろん、医学部入試で女子を差別的に不合格にしたなんてのは、話にならない論外なんだけど。

私の場合、高校時代には、男子が8割くらいで、1年・3年次が別学(男子のみクラス)、2年次だけ共学だったので、雰囲気の違いは良く分かる。無論、2年次が一番楽しかった。3年で文科理科に分かれ、その時に男女比も大幅に変わった(共学は理系1クラス、文系3クラス)。確かに理系を選ぶ女子は少なかった。しかし私は「女子が理工系に向いていない」という偏見で進路を選んだとは思わない。彼女らは、自分の好み・特性で進路を決めたはずなので。何しろ、私の高校は県下第一の進学校で、そこに来る女子はよほど「出来の良い子」に限られ、実際、頭の良い、しっかりした性格の女子学生が多かった。その彼女らが、自分の進路を決める際に単なる偏見に左右されたとは、とても思えない。

私事にわたるが、私の娘は、父親の期待に反して数学・物理・化学があまり得意でなく、好きでもなさそうだった。私は一生懸命教えようとしたが、教え方が悪かったのか、効果がなかった。しかし、何を考えたか大学では医療系を選び、今は作業療法士として病院で働いている。在学中は生化学・病理学など理系科目の勉強に苦労したようだが、何とか卒業し今は一人前の作業療法士だ。このように、理系科目の好き嫌いは、必ずしも環境要因だけでなく、生まれつきとしか思えない部分があるが、実際には女子にも理系向きの人は多数いる。

私自身、工学部で長年教員をやっていて、特に最近は女子学生の方が男子より出来が良い傾向を強く感じていた。工学部に来るような女子学生は、元々その「覚悟」を持って入学してくることもあるはずだが、能力的に見て、男女差を感じたことはない。一般に女子学生の方が「真面目」で、授業の出席率や宿題の提出率なども良かったので、成績が良かったのだ。女子で論理的思考に優れ、テキパキと物事を処理するタイプは、結構多い。

理系に女子学生を増やすために「別枠」を設けるのは、単に成績が悪くても入れる女子を増やすだけなので賛成しない。むしろ、全員同じ土俵で競わせて、並み居る男子どもを蹴散らして入ってくるような女子学生こそが増えるべきなのだ。そして、そう言う学生は必ずいる。

理系の女性研究者を顕彰する「猿橋賞」の歴代受賞者を見るが良い。優れた能力の女性ばかりだ。女性が理工系に向いていないなんてのは、完全なる幻想に過ぎない。今後も、理系に秀でた女性は必ず現れる。大人がやるべきなのは、そう言う子たちの「邪魔」をしないことだけだ。一般に、才能のある子は、黙っていても独りでに伸びる。下手に「教育」で伸ばすなどと考えない方が良い。入試も「女子枠」など作らなくて良い。

女性の研究者にとって最大の難関は、出産と育児である。特に理系の場合、実験や観測などが多いので、現場にいないことのハンディが大きい。出産を期に研究者人生を諦めてしまう例は多い。もし女性研究者を増やしたいのであれば、出産・育児がハンディにならないような制度設計をする必要がある。研究者のキャリアにおいて、出産・育児期間の空白が単なるロスとして数えられるようでは望みがない。無論、育児は女性だけのものではないが、妊娠・出産は女性にしかできないし、生後1年くらいは育児に専念しないと、母子ともに難しい状況に陥る。その後も、現状、子育ては女性研究者にとってかなりの負担になる。たとえ周囲の助けがあるとしても。女性が理系、または研究職を志望しにくいのには理由がある。入試枠の改変ごときで、その困難が解決できるはずもない。もっと、良く考えてもらいたい。

今日もあれこれと

吉村大阪府知事が、コメンテーター玉川徹氏を万博会場に「出入り禁止」にすると言って炎上している。元々評判の悪い、例の「木造リング」を玉川氏も批判したので噛み付いたわけだが、対談相手の横山大阪市長も爆笑し、会場からは笑いと拍手が起きていたそうだ。

これに対し、SNSでは批判的なコメントが殺到した。まあ当然だが。

「とんでもない言論弾圧」「勝手に誘致しておきながら批判者はシャットアウトか?」「個人を出禁にする権限ないはず」「赤字の責任きっちり取れ」等々。

無論、本人も出禁の権限などないと知っていて発言したとして、発言を撤回しなかった。また「冗談なんだから目くじら立てるなよ・・」との擁護発言もある。しかし、これは一種の権力乱用なので、冗談と言って見過ごすわけには行かない事案と言える。自分の好みで権力を振り回されてはかなわない。元の新潟県知事・米山隆一氏が「公式に撤回・謝罪が必要」と発言しているが、これが正論。しかし残念ながら、今の日本では正論が少数意見でしかない場合が多い。TVマスコミは、本来、権力監視の役割を果たすべきなのだが・・。

総論的に言って、TV局で政府に睨まれているのは、テレ朝とTBSの2局。玉川氏が出るテレ朝の「羽鳥慎一モーニングショー」と、TBSの「報道特集」「ニュース23」が、主たる「監視対象」になっているようだ。これらの番組では、しばしば政府にとって「痛い」話題を放映するから。万博の「リング」も、これらの番組でさんざんこき下ろされた。玉川氏はその中の一人に過ぎないのに、狙い撃ちされている。まあ、普段から万博に限らず、政府批判的な論評が多いので、政権寄りの人々からは憎悪の対象になっているから、不思議は何もない。吉村知事も、玉川氏が憎くてたまらん人種に属するのだろう。

しかし、TV放送は社会的影響力も大きいから、権力機構に支配されてはならない。実際には、どうやら相当程度に取り込まれている気配が強いけど。

NHKなどもその典型例に入る。だから「NHKを監視する会」みたいな団体は多数出来ている。恐らく、NHK内部にも権力に迎合する勢力と、それに対抗する勢力があって、裏で闘っているのだろう。例えば地上波の報道系は、見てすぐ分かるくらいに権力迎合的で、日本あるいは米国政府に「不都合な真実」は、まず流れない。例えば、バイデンのボケ老人ぶりなど、民放番組には出る程度の情報さえも出てこないので、これは明確に分かる。

その一方で、例えば最近放映された「下山事件」関連のNスペでは、事件の背後に米国機関が関与することを強く匂わせる内容を流した。日本の主権はどこにあるのか?と言う、本質的な問いが、そこにはある。私はこれを見て、NHKの中にはまだ良心的な人々がしっかり残っていると確信できた。NHKよ、良心を捨てるなかれ。

自民党の裏金問題は、とうとう何一つ明らかにならないまま4ヶ月も過ぎた。「説明責任を果たす」って言ってなかったけ?どこが説明責任なのか、ちっとも分からない。何しろ、裏金の発生事情も、使い途も、何一つ明らかにならず、政倫審に出ても「ワシ、何も知らん」の一点張りで、誰一人真実らしきことを言った人間がいないんだから。

まあ、泥棒に泥棒を調べさせたって何も出てこないのは無理もないけど。それにしても、森は調べず、二階も無罪放免、岸田も何もせずって、国民もずいぶんなめられたもんだな。すっかりバカにされきってる。やはり選挙で痛い目に遭わせないとダメだな。国民が、しっかり選挙しないからこう言うザマになる。

これで岸田首相は米国に行って「国賓」待遇されて良い気分になれるのかな?帰ってきたら、また地獄が待っているのに。

海も暮れきる

吉村昭「海も暮れきる」を読み終えた。吉村作品はいつも面白くて一気に読むのが普通だが、今回は途中読むのが辛くて止めそうになった。こんな状態になったのは、彼の作品としては「冷い夏、熱い夏」以来だろう。この作品では、彼の弟がガンになり、それを隠して看病する兄と、ガンを疑う弟との葛藤が描かれていて、死期が近づいてからの苦しみの描写などが迫真的すぎて、読むのが辛かったのだ。

今回の「海も暮れきる」は、俳人尾崎放哉が小豆島にたどり着いて亡くなるまでの8ヶ月を描いた作品だが、これも亡くなる直前の描写は凄惨なほどで、人間は死ぬまでにこんなに苦しまねばならぬのかと、あれこれ考えさせられたのだった。この件は、以前に書いた「安楽死」の問題とも繋がっている。実際、作者の吉村昭も、膵臓ガンの末期になって、自ら点滴の管を抜いて旅立ったと言うから、これも一種の「自ら選んだ死」に属するはずだ。彼のこの選択を、誰が責めることができよう。人間には自らの最期を選ぶ権利があるのだ、と言うのが私の確信だ。

さて、主人公の尾崎放哉と言う人、数々の自由律俳句で知られる天才的な俳人だが、性格的にはかなり癖のある人物だったようだ。鳥取の田舎から東京帝国大学法学部に進み、一流商社に勤めた超エリートだったが、酒癖が悪いために満州に飛ばされ、そこでもトラブルを起こして事実上のクビになり、美しい妻とも別れて漂白の身になる。やがて肺病を病みまともに働くこともできず、知人友人たちを頼りながら生き延びる生活に陥る。台湾にでも行ってそこで死ぬつもりで、その前に小豆島でも見ておこうと行き着いたその小豆島が、終の住み処となった。

小豆島でも、世話になっている人々に感謝しながら、一方で自尊心のせいで癇癪を起こしたり、恨み辛みを心に募らせたりする。その鬱屈で大酒を飲み、また大失敗をやらかしてしまう。酒を飲むと頭が冴えてきて人を突き刺すような言葉が一層鋭くなる、と言う酒癖は私には全くないし他人でもほとんど見たこともないが、中にはこんな人もいるわけだ。

彼の中での自尊心と劣等感の交錯ぶりは、良く理解できる。東京帝大出の秀才で俳句の才も飛び抜けているのに、収入源はなく専ら知人友人に無心して日々を過ごさねばならない屈辱感が、彼を苦しめるのだ。この辺に関する吉村の心理描写は、簡潔なのに的を得ていて、とても鋭い。

また放哉は、別れた妻の馨への執着を捨てることができなかった。身体が衰えているのにしばしば妻の美しい身体を抱く夢を見るし、最後は彼女の写真を求めたほどだった(叶えられなかったが)。頭(理性)では今さら何をと思いながら、しかし心の中では諦めきれずに妻に執着する男の有様は哀れでしかないが、男はみんなこんなものだとも思う。結局、男は女の魅力に抗えない。身体の魅力だけでなく、優しくして欲しい甘えがある。

馨自身も頑なな性格であったらしく、放哉からの手紙にもほとんど返事を出さず、僅かなお金だけ送って来たこともあったらしい。ただ、放哉と別れてからも再婚せず、放哉の死期が近づいた知らせを受けると最初に小豆島に着いている。ただし死に目には会えなかった。作品中のこの場面は、特に印象的だ。死んで棺桶に入った放哉に馨が出会う。

「どうぞ、仏様を拝んで下さい」

(中略)女の口から叫びに似た泣き声がふき出し、畳に膝をつくと顔をおおった。激しい泣き方であった。女は肩を波打たせ、体をもだえるように動かして泣いている。(後略)

吉村昭は、この種の描写が実に上手かった。彼の作品では何度もこの種の印象的な場面が出てくる。ここも、その一つ。

この馨と対照的な女性として、放哉の最期を看取ったシゲと言う漁師の妻がいる。結局はシゲと彼女の夫の漁師が、放哉を最期まで世話し続け、放哉は漁師の腕の中で息絶える。放哉は死ぬ前、足腰も立たなくなって下の世話までシゲに頼むことになるが、本人は恐縮して頼むのに対してシゲは「なにを今さら水臭いことを言いなさいます。下のものを今日からとりましょうよ。病人なら病人らしくわがままを言って下さいな」と、事もなげに言う。この場面も、強く心打たれる。学も教養もなく、単に素朴で質実な女だが、強くたくましく、かつ温かい。この作品に「救い」を与えているのはシゲの存在だと思う。

作者吉村昭は、自身が肺病で死にかけ、病床で読んだ俳句で心惹かれたのが放哉作品ばかりだったことから、尾崎放哉に興味を抱き、評伝を書くまでに至る。しかしその「あとがき」には「私は、三十歳代の半ばまで、自分の病床生活について幾つかの小説を書いたが、放哉の書簡類を読んで、それらの小説に厳しさというものが欠けているのを強く感じた。死への激しい恐れ、それによって生じる乱れた言動を私は十分に書くことはせず、筆を曲げ、綺麗ごとにすませていたことを羞じた。」と書いている。私はこの文章にも感動する。私が吉村作品に心惹かれる、その秘密の一端がここに現れていると思う。

ブルックナーのこと

アントン・ブルックナーの作品、と言っても私は交響曲以外ほとんど知らないのだが、私はその数少ないブルックナー作品に、若い時分から心を惹かれていた。

最初のきっかけは、不眠症対策だった。京都の学生時代、あれこれ悩みも多くて眠れない日が続くので、西洋古典音楽に詳しい友人に「よく眠れる音楽作品はないか」尋ねた。彼の答えは「ブルックナーでも聴いてみたら?」であった。研究室にクラシック好きな助手の先生がいて「あれはダルイでぇ・・」と勧めて(?)くれた。それやこれやで、ブルックナーのLPを聴くことになった。ちなみに、その助手先生はモーツアルトが好きで、特にクララ・ハスキルを好んでいらした。その後、私もヴァイオリニストのグリュミオーハスキルのコンビを好んで聴くことになる。

当時私は、下宿で音楽を聴く際に、スピーカーは置けなかったのでヘッドホンで聴いていた。それで、夜寝るときにヘッドホンを装着し、ブルックナーのLPをかけて眠りに就くことにした。借りてきたLPは、交響曲第9番ニ短調カラヤン指揮ベルリンフィルの演奏だった。今思えば、カラヤンの旧盤だったことになる。

さて、音楽は静かに始まった。遠くでホルンが鳴っているみたいだな・・。それから音楽はずんずん盛り上がり、一旦静かになり、再び盛り上がって、最初のクライマックスに達する。ティンパニーがカッコイイ。おおっ、なかなか良いじゃん・・。それから静かな中で弦のピッツイカートが響いて行く。それから、美しい第2主題が流れ出した。何だ、全然ダルくないぞ、思ったより聞けるなあ・・と思いつつ、心地よく眠りに就いたのだった。後ろの第2、第3楽章は聞いた覚えがない。きっと寝てしまったんだろう。

それから今度は、真面目に(?)ブルックナーを聴くことにした。彼の交響曲は9番まであるので、どれから聴くべきか、くだんの友人に尋ねたら、まずはポピュラーな第4番「ロマンティック」から聴いては?と薦められた。それで4番を聴いたみた。

まあ悪くはないが、ちょっと退屈するなあ・・と言うのが最初の印象。その後、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルの名盤(レコードアカデミー賞を受けた)で聴いて、その評価は少し上がったが、その後に全集を聴いても、私の中で4番の順位はさほど上がらなかった。彼の作品には、4番よりも私を魅了する作品が多かったからだ。

ブルックナー作品の最高作は、交響曲の第7番から第9番までの後期3作品だとされる。私もそう思う。ただしこの3作は性格がずいぶん異なっている。

交響曲第7番は、全曲を通して非常に美しい点に特徴がある。第1楽章冒頭から魅力的な旋律が流れる。ブルックナーを初めて聴く人は、この曲から始めるのが良いと思う。第2楽章は美しいアダージョ。挽歌なのだが、悲しみよりは荘厳さで魅了する感じ。この曲の楽譜には大きく2種類あって、クライマックス時にシンバルが派手にジャーンと鳴る版と鳴らない版がある。大半の指揮者はシンバルが鳴る版を使っているが、ギュンター・ワントは常に鳴らない版を使っていた。それでも、聴いた印象はすごく重みがあって、私は大いに惹かれたのだった。

彼はオイゲン・ヨッフムと並んで、ブルックナーの専門家として知られていた。私は彼がN響を振って第8番を演奏する場に立ち会ったことがあるが、残念ながら大きな感銘は受けなかった。第8番ならばオイゲン・ヨッフム指揮バンベルク響のライブを聴いて鳥肌が立つほど感動したし、N響の同じ曲ならば、マタチッチが振った時のライブが素晴らしかった。N響から、あんな響きを引き出せるのはマタチッチくらいしかいないだろう。

その第8番は、長いこと私の中でブルックナーの一番好きな曲だった。全4楽章で80数分かかる大曲だ。コンサートでは、この1曲だけ、と言う例が多い。弾く方も聴く方も、結構な体力を要する。ただし私は、この曲が長たらしいと思ったことは一度も無い。全曲通して、聞き所がたくさんあるからだ。特に好きなのは第3楽章アダージョ。普通の速度で27分くらいかかる長大な楽章だが、最初から最後まで、ただただ美しい。聞き惚れているうちに終わってしまう感じ。続く第4楽章は軍楽隊みたいな音楽で始まるが、その後美しい第2主題が現れ、あれこれと展開する。この楽章はハース版とノヴァーク版の差異が目立つ。多くの指揮者は後者を使うが、私は省略のないハース版を好む。あの、ヴァイオリン独奏のある部分が好きなのだ。その点では、カラヤンが大抵ハース版を使っていた点を評価する。

私は第8番が長いこと好きだったのだが、次第に第9番の方に心惹かれるようになった。この曲は第3楽章まで完成し、第4楽章を作曲中にブルックナーが亡くなってしまったので未完の作品である。作曲者は、第4楽章の代わりにテ・デウムと言う声楽つきの楽曲を演奏するよう遺言したそうだが、実際に演奏される機会はほぼ無い。第4楽章を復元して演奏した盤もあるが、私はあまり良いとは思わなかった。この曲は、第3楽章のまま終わるのが似合っている。そう言う内容の曲だと思うのだ。

その第3楽章アダージョは、何と素晴らしい音楽だろう。私はこの曲を何度聴いたか数えられないほどだが、いつ聴いても心打たれずにはいられない。バッハや後期ベートーヴェンの作品と並べて置けるのは、こうした曲だけではないだろうか・・?

深いため息のような動機で始まるこの楽章の魅力は語り尽くせないが、種々の長い変奏を経た末に、次第に破局を予感させる同音の続く動機が各パートに増えてきて、最後に地獄のような破滅の音楽が鳴る。聴き始めの頃、私はこの部分が辛くてかなわなかったが、この曲がその部分では終わらず、次に平和と安寧を感じさせるフルート独奏とホルンの響きのうちに終わることで、その意味を理解したように思った。あの、最後の部分の美しさは言葉では言い表し難い。

この曲については、指揮者・演奏論に関しても語りたいことがあり、他の曲にも触れたいので、後日ブルックナーについて、また語ることにしよう。

水素政策批判を書く

急な飛び込みで、いずれも依頼原稿だが、水素関連政策批判を二つ書くことになった。

一つは、国内有志の手になる「非政府エネルギー基本計画」(https://www.7ene.jp/)の報告書(https://www.7ene.jp/file/Nongov7EnePlan-ver01.pdf)を改定する際に加筆するお手伝い。今のところ「Ⅱ.6. 再エネなどの性急な拡大の抑制と技術開発戦略」の中に1節を設けてもらって、水素・アンモニア・合成燃料などがなぜ上手く行かないのかを述べる。ここでは、やや専門的な内容が書けるので、エネルギー収支分析など、少し数字を入れた定量的な議論を展開するつもり。

もう一つは、宝島社から出る本の1章の分担。こちらは一般向けの本で、テーマも既に「水素エネルギー政策の破局」とつけられており、それに従って書く。原稿締切が5月3日と決まっているので、あと正味1ヶ月のみだ。出版話の進行がやたらに早い。一般向けなので、少し柔らかいトーンで、分かりやすさ優先で書く。また、世の中の動きも最新状況を踏まえて書く。むろん、この種のものは書いた端から古くなって行くのであるが。

水素・アンモニア・合成燃料などの批判は、もう既にアゴラに相当数書いたので、自分の中では「もう結構」と言った感じなのだが、世の中では私の批判などどこ吹く風で、水素関連政策がどんどん進められている。このバク進ぶりは凄い。全くの聞く耳持たず。

つい昨日(3/27)も、東京・晴海の五輪選手村跡地で、国内最大級の水素ステーションが開所式を迎えた(https://mainichi.jp/articles/20240328/ddm/008/020/082000c)。小池都知事が嬉しそうにテープカットをしていた。1日に燃料電池バス40台分の供給力があるとか。これに限らず、東京都は水素政策に熱心で、23年12月に「東京水素ビジョン」(https://www.kankyo1.metro.tokyo.lg.jp/archive/climate/hydrogen/tokyo_hydrogen_vision.html)なるものを策定している。

その内容として、第1章は気候危機と水素エネルギー、第2章は2050年の目指す姿、第3章は2030年カーボンハーフに向けた取組の方向性となっている。

2050年には「カーボンニュートラル」を達成するとして、その前の2030年までには少なくともその半分を達成するということで「カーボンハーフ」なる新語を作成したようだ。しかし私の見立てでは、2050年カーボンニュートラルも、2030年カーボンハーフも、実現は難しい。特に2030年と言えばあと6年しかないのに、CO2排出量を現在の半分に落とすなど、ほとんど考えられない。一体、どうやって・・?

そもそも、水素でCO2排出量を減らしたいという願望自体に無理がある。現在の水素製造法として現実的なのは、天然ガス中のメタン(CH4)を水蒸気改質する方法と、水を電気分解する方法の二つである。他の方法は、現在、実用性の見込みがない。

上の二つの方法のうち、安く水素が出来るのは前者で、今のところ水素ステーション等に供給されている水素は全部、この方式に依っている。しかしこの方式では、水素製造時に、メタンを燃やしたのと同じ量のCO2が出る。これでは「脱炭素」にならないので、CCSなどの方式を使って「見かけ上」CO2排出なしで水素を供給しようと悪戦苦闘しているが、実際にはCCSが実用化されるのは2030年以降とされる。CCSについては後日触れるつもりだが、技術的にも経済的にも非常に困難度の高い方法としか言えない。それに、発生したCO2をCCSで処分するのなら、わざわざエネルギーを損して水素を作るまでもなく、天然ガスや石炭をそのまま燃やして、発生するCO2をCCS処分すれば良いはずだ。

実は、水蒸気改質で水素を作る際に、元の天然ガス保有していたエネルギーの約半分が使われてしまう。だから、メタンの水蒸気改質は、全く損な方法である。しかし、水素の化学反応による製造法は散々研究された末に、この方法が選ばれており、今のところこれに対する代替技術は見当たらない。そもそもが、二次エネルギーとしての水素ではなく、アンモニアなどの原料調達用としての水素製造法なのだから仕方がない。

一般に、メタンだけでなく各種炭化水素バイオマスなどの炭素を含む化合物から水素を製造すると、含まれる炭素の大部分はCO2になってしまうから、基本的に「脱炭素」には役立たない。そこで出てくるのが、水の電気分解による水素、通称「グリーン水素」である。これなら、製造時にCO2を出さないから脱炭素に役立つのだと。東京都の水素ビジョンでも、専らこのグリーン水素の活用が謳われている。

しかし、良く考えてもらいたい。水を電気分解するとは、電力を使用することだ。電力は、水素と同じ二次エネルギーである。電力を使って作る水素は、必ず元の電力より高くつくし、効率100%のプロセスはあり得ないから、必ずエネルギーロスも出る。その点でも高くなる。実際、現状で電気分解で作られた水素が商用的に使われている例はない。水蒸気改質で作る水素の約2倍以上の値段になるからだ。故にグリーン水素は必ず高いものになるし、それは原理的に避けられない。技術が進めば安くなると言うものではない。

それに、水素は電力と違い、そのままでは「エネルギー」ではない。燃やして熱エネルギーに変えるか、燃料電池に使って電力にするのである。

この場合、燃やして使うのは他の熱機関と同様なので、エネルギー効率はあまり良くない。この効率で言えば、燃料電池がずっと高い。しかし、燃料電池は一般に高くつく。それに、電力→水の電気分解→水素→燃料電池→電力 と言うループを見れば、最初から電力をそのまま使う方が断然有利で安くつくことは明白だ。

電力は蓄積困難だが、水素にすれば貯められる、と言うのは、よく使われる「言い訳」だが、電力貯蔵手段として水素が優れているかどうかは、別途検討すべきだ。例えば、一般的な効率として、水の電気分解約60%、燃料電池も約60%とすると、この2段階で0.6×0.6=0.36、つまり36%になる。64%もロスするのだ。電力を貯えたら64%無くなる蓄電池って、あり得るだろうか?無駄の典型と揶揄される「揚水発電」でさえ、効率は70%、つまりロスは30%しかないのに。

つまり、グリーン水素とは電力の無駄遣い以外の何物でもない。もちろん、電力を大切に使うべきである。

要約すれば、私にはこんな水素などに狂奔する人たちが何を考えているのか、ちっとも分からないのである。こんな事業に何兆円もの税金をつぎ込む日本政府にも。

宇宙開発批判 続き

世の中の人々が、宇宙開発やロケット打ち上げになぜこれ程にも無批判なのか、私には理解しかねる。現実を無視した議論がマスコミ等に多すぎるのが、大きな原因だとは思うが。

例えば、最近打ち上げ失敗した「民間」ロケットがあるが、民間とは名ばかりで、資金の多くは政府関連団体からの補助金、つまり原資は税金なのだ。商売ベースでは、どだい無理だから。

しばしば、将来予測として「宇宙ビジネス」が取り沙汰されるが、実際には商売ベースで成り立つ宇宙関連事業は、おそらくあり得ない。月と地球の間で物資を運ぶ「輸送ビジネス」を考える向きもあるが、そのユーザー数や運ぶ物資の量を考えたら、その輸送単価は恐ろしく高いものになることは明らかだ。一体誰が払えるのか?もちろん、国か関連団体しかない。つまり、ここでも原資は税金であって、通常の運送業のような形でお金が回る仕組みは、まずあり得ない。

また人間を乗せて地球周回とか月往復とか行う「ビジネス」の場合、運賃が何億円とか、恐ろしく高いものになるので、ごく一部の大富豪の「お遊び」にしか使えない。比喩的に言えば、うんと高いジェットコースターとか何かのアトラクションに乗ってスリルを愉しみ「ああ面白かった」と言うのと本質的には変わりがない。なぜ、こんなものをもて囃すのか・・?

また、一部の人々は「地球が気候変動等で住めなくなったら、月や火星その他へ移住するんだ!」と勇ましいことを言うが、月や火星で長く生活することが如何に困難を極めることかを理解していないから言える話だと、私は考える。

人類は今のところ、最も近い天体である月にさえも往復したことは史上一度しかなく、次回は未定である。まして、月に「住む」のは、相当に困難だ。空気が全くなく、水もない。植物が育つ条件は全くないから、工場でも建てないと無理だが、相当な建屋面積が要るし建設作業を誰がやるのかという問題もある。水・空気・肥料・光を供給して植物を育てないと、持続的な食料供給は不可能だ。従属栄養生物である人間は、植物等の独立栄養生物なしには生きて行けないから。植物に頼らず、化学合成で無機物から有機物を作るのは、まだまだ先の話である。ましてや、光合成(H2O、CO2→糖、O2)や生物的窒素固定(N2→NH3、アミノ酸)のような高効率・精密な合成を細胞レベルで実現するなどは。結局、困難な化学合成をするよりも、各種植物を育てる方が簡単で早い。月面で人間を養えるほどの植物工場が作れるかどうか、これが第一の関門。地球上では、一人当り1ヘクタール以上要るらしいが、月面では格段に効率化しないと、建設がもっとずっと困難になるだろう。

また、もし一定数の人間が月で生活する条件ができるとすれば、上記からそれは地球から相当量の必要資材・機材等を持ち込まないとできないはずだし、それには膨大な数のロケットを飛ばさないといけないだろうと予想される。ビジネスなど、できる余地があるのかどうか?

人間が持続可能な形で生き続けるには、酸素・水・食料その他資材の供給と、廃棄物の処理とリサイクルの仕組みができないといけない。エネルギーは太陽光発電で賄うとしても、それ以外の物質的条件を満たさないと持続可能にはならない。地球上でさえも、周囲と隔絶されたカプセル内で長時間生き続けることは困難だった(過去に実験したことがある)。

次に近い火星へも、有人飛行はかなり困難なはずだ。そもそも、行くのに年オーダーの時間がかかる。その間の酸素、水、食料等の必要量は膨大だ。しかも火星に着いたら、再び飛び出すには地球を出発するに近い推進力が要るから、その燃料や機材も準備する必要がある。だから先に無人機で必要なものを送り込んでおくとする構想もある(無茶苦茶大変)。

人間が火星に移住すると言う計画もあるそうだが、これも絶望的に困難だ。まず、空気がない。火星の大気は圧力で地球の0.75%しかなく、その大半はCO2である。酸素はほとんどない。水も、地下に氷があるか探っている段階で、表面には皆無のようだし、現状の観察では緑は全く生えていない(生命の痕跡さえ、まだ探している段階だ)。この環境下で食料生産など到底できそうもないから、月と同じ問題が起こる。結局、地球に最も近い天体でさえ、移動自体が困難で、まして「移住」など夢物語に近い。

また宇宙の巨大さについて、もう少し理解を深める方が良い。実は、私は子供の頃「天文少年」であって、天体観測に勤しむ傍ら、天文学関連の書籍を種々読みあさり、宇宙に関する知識を相当程度に貯えた。そして、初めは宇宙旅行などへの夢に酔いしれていたが、次第に現実を知るにつれ、宇宙への旅など単なる「夢物語」であると実感するようになった。その主な理由は、何と言っても宇宙が大きすぎることである。

まず、地球と太陽の平均距離を1天文単位au)と言い、約1億5千万kmである。地球と月の間隔が約38万kmだから、その400倍近い遠距離である。ちなみに、現状、最も遠い惑星である海王星まで約30auある。これを一応、太陽系の半径とする。光の速さで1auは8.3分、海王星までは約4.16時間、つまり、光速だと太陽から出発して太陽系を飛び出すのに4時間ちょっとしかかからない(以前は惑星だった冥王星までだと、もっと遠いけど)。

ところが、一番近い恒星(プロキシマ)までは4.25光年離れている。つまり光速で飛行しても4年以上かかる距離にある。今の人工衛星で最も地球から離れ、宇宙を飛んでいるボイジャー1号の速さでも、1光年飛ぶには1万8千年かかる。つまり、一番近い恒星に着くには、7万7千年かかる。往復すると15万年以上・・。飛ぶときは「冬眠」状態にするんだという話もあるが、人間を冬眠でも15万年持たせる装置なんて、夢でしかないだろう。時空を反転させてワープ・・と言った話は、SF小説に任せる。こっちは、現実的な話をしているので。

科学者たちの中には、宇宙飛行船も超長時間飛行に耐えるために、自己複製型の装置を作るとか言っているが、どうやって実現できるのか、私には見当もつかない。乗っている飛行士たちも「自己複製」させるのか・・?それでも15万年は長すぎる。もし無事に帰ってきても、その頃の「子孫」と話が通じるのかさえ分からないだろうし、地球に人間が住んでいるかどうかも分からない。しかもこれは最も近い恒星系に行った時の話で、10光年も離れたらもっと絶望的だ。

これはつまり、広い宇宙には地球に似た星や人間のような生物がいるとしても、お互いにたどり着き交信することは絶望的に困難だと言うことだ。電波で交信してさえも、片道何年もかかるのに。

そんな夢物語の前に、人類はこの地上においてこそ、やらなければならないことが多数ある。打ち上げるのは無人の通信・探査衛星程度にとどめ、遙か彼方の宇宙について語るのは、地上の問題が解決してからにしてもらいたい。

マスコミの「タブー」はまだある

3月19日に森永卓郎氏の最新刊について述べたが、森永氏の挙げた三つの他に、マスコミがタブーとしている話題がまだ幾つかあると思う。私の見立てでは1)地球温暖化・脱炭素批判、2)原発放射能関連、3)リニア新幹線批判、4)宇宙開発批判の4つは、大手マスコミにはほぼ決して載らない話題、つまりタブーになってる。

1)については、以前に書き、今後も続けて書くので今回は略す。「炭素クレジット利用はグリーンウォッシュだ」(https://agora-web.jp/archives/240319220715.html)は、確かに正しいが、それ以前に「脱炭素はグリーンウオッシュだ!」と言うべきなのだ。何しろ、科学的根拠がないのに、あたかも本当で有意義であるかのようにみせかけているのだから。

2)原発放射能関連:福島事故の後、燃料デブリの取り出しに苦戦し廃炉が予定通り進んでいないことは報道されマスコミでも批判されたりすることはあるので、原発関連が全部タブー化されているとは思わない。しかし、一般市民が知ったら色々と不都合だろうと思われる情報は、慎重に、できるだけ表に出ないよう「配慮」されていると思う。

例えば、先日放送されたTBS「報道特集」で、志賀原発に入った村瀬キャスターが言うには、カメラの方向が厳しく管理されていて、特定の方向にしか向けられないとのこと。実際、カメラ1台に複数の職員が張り付いていて、カメラの撮影方向を厳しく管理していた。まるで軍事基地の撮影みたいに。これを察するに、放映されたらよほど「ヤバイ」映像があるんだろうな、と言うことだ。ネット等では「志賀原発は全然大丈夫、危険を煽る報道には喝!」などの勇ましい文言が飛び交っているが、本当に大丈夫ならば、どこを撮影されたって良いんじゃないの?と聞きたいくらいだ。

また、放射線被曝評価に関しても、国際原子力機関(IAEA)などが出す評価は一般に甘く、他の科学者たちが主張する危険度の方が厳しいと言う事実があるが、マスコミには「権威ある」IAEAの知見しか紹介されない。特に、身体の外部からの放射と、体内での内部被ばくでは危険度は桁違いなのに、その区別も明確に報道されていない。典型的なのは、例の海水放出された水に含まれるトリチウムの毒性だ。確かに、トリチウムの出すβ線は、紙1枚で遮れるほど弱い放射線だ。かつ、1ベクレル当りの健康影響はセシウム137の約1/700に過ぎないということで、食品の基準値の規制対象に含まれていない。また、生物濃縮もしない。しかし、体内に取り込まれた場合には、細胞レベルの近距離でβ線照射を受けるので、DNAなどの損傷が著しい。つまり毒性がものすごく高い。だから、トリチウムは極力、体内に入れてはならない物質だ。東電や国、また大手マスコミや御用学者たちは、この点を言わない。

3)リニア新幹線関連:ネットを探れば、リニア新幹線に関する問題点の指摘は山ほど出ており、もはや出尽くした観がある一方で、大手マスコミにはこの問題点を指摘する声がほぼ全く見られない。沿線自治体をはじめ、ひたすら、全線開通あるのみ、なのだ。工事が進まないのは、静岡県知事がダダをこねているからだと言わんばかりの印象操作が目立つ。しかし、事実はそんなに単純ではない。実際には、水資源の確保や残土の置き場、品川や名古屋の都市部における大深度工事、南アルプスのトンネル工事その他、難題が種々立ちはだかっていて、進んでいないのだ。中でも、水資源の確保は難しそうだ。

実例として、丹那トンネルの例がある。このトンネル1本で、丹那盆地の水は全部枯れてしまい、稲作やワサビ栽培が出来なくなった。当時の国鉄、今のJRは、丹那盆地の住民に多額の賠償金を払っている。しかし枯れた水資源は戻ってこない。また山梨のリニア実験線の沿線でも水涸れは起こっているから、静岡工区での大井川水源が涸れる心配は当然起こる。その対策として、田代ダムの取水を止めて、工事で失われた分を補填すれば良い、と言う案が検討されている。島田市の市長などはそれで解決すると楽観しているみたいだが、そもそも「工事で失われた水」の量をどうやって測るのか、具体策が示されていない。また、その量が田代ダムの取水量を越えたらどうするのかも。つまり、現段階では「こうすれば上手く行くんでは?」という段階で、確実な見通しは得られていないのだ。こうした「不都合な真実」をマスコミは伝えていない。

4)宇宙開発批判:これまたマスコミは「夢だロマンだ」と囃し立てるが、そもそもロケット技術というのは、ミサイル開発とともに進められてきた立派な軍事技術だ。各種の衛星と言うのも、基本的には偵察(スパイ)用が主目的であって、その副産物として資源探査や通信補助その他、民生用の利用がある。つまり、宇宙開発というのは、基本的に軍事利用がメインなのだ。この点は、月や火星・小惑星探査などでも同じだ。

実際に役立っている宇宙技術は、全部無人機で行っていて、生身の人間はほとんど役に立っていないことにも注意すべきだ。アポロ宇宙船で月に降り立った飛行士が、何をやったか思い出すが良い。単に、その辺を歩き回って足跡をつけ、米国の旗を立てて帰ってきただけだ。つまり、エベレスト登頂とかと大差はない。「行くこと」だけに意義がある。ただ、それだけ。

今、地球の周りを回っている宇宙ステーションにいる飛行士たちだって、何かの実験をやったりはしているが、そんなのは今ならロボットでやれるものが多いはずだ。AI技術が相当に進歩してきたので、人間がわざわざ宇宙に行かなくとも、大抵の任務は果たせる。無人機になれば、装備はグンと簡単になり、経費も安くなる。人間が宇宙空間で生きて行くのは、恐ろしく大変なので。これからは無人機の時代だ。宇宙飛行士を英雄視するのは、もう止める方が良い。そして、宇宙開発とは常に「スターウォーズ」と隣り合わせであることも忘れるべきでない。