経済状況を見る

最近の統計では日本のGDPが2四半期連続でマイナス成長になり、日本経済が不況であることが確認された。不況は経済活動の衰退だから、それなら株安になるのが当然のはずだが、実際には日本の株価は上昇し、ついに史上最高値を更新して4万円台にまで達した。

また一方で、春闘の交渉では経営側からの「満額」回答が頻出し、賃上げブームが高まっている。マスコミ等では、これから賃上げ→購買力増加→消費増=景気回復→物価上昇 の好循環が始まると盛んに囃し立てている。果たして、そんなに上手く行く話なのか・・?

一つの疑問は、賃上げされているのは大手の上場企業正社員ばかりで、中小企業や非正規雇用の賃金も同様に上がるのか、不透明な点だ。現在の日本では労働者の多くが非正規雇用だから、彼らの賃金が上がらないと全体的な底上げにはならない。大手正社員との格差が拡がるだけでは解決にならない。

また、多少の賃上げがあったとしても、それを上回る増税社会保険料の値上げがあると、そんな分は吹っ飛んでしまう心配もある。実際、森永氏の本によると、日本の勤労者の国民負担率は50%に届きそうな水準で、むろん国際的にもトップクラスだ。北欧などでこれより負担率が高い国もあるが、それらの国では国公立大学の授業料がタダとか、各種の手厚い保護がある。いわゆる「高負担・高福祉」が実現されている。しかし日本はその逆で「高負担・低福祉」の典型なのだ。この点に関し、国民はもっと文句を言うべきだ。それが為されないのは、森永氏の本がなかなか出版されなかったように、そういう現実を知らされていないことに大きな原因がある。国民は、まず事実を知らないと。

米国や日欧の株価は、昨年10月まで下落・横ばい傾向だったのに、その後は一転して上昇傾向になり、現在では日米ともに株価の最高値圏に到達している。そのためもあって、株に投資しろとの声がしきりに聞こえる。今、投資しない奴は大バカだと言わんばかりの論説もある。

しかし、投資で儲けるのは、バクチと同様、一握りの幸運者だけだ。大部分は、負けてスッてしまう。大谷選手の水原通訳のように。実際、今の高値の株を買って儲かる確率は低いはずだ。安いうちに買って、高値になったら売るのが儲かる道なので。もう遅いわ。

さらに、これまでカネ集めのタネだっESGなど温暖化対策への投資話は、昨年後半から崩れている。再エネやEVのコスパが案外良くないことが明確化したからだ。人為的温暖化説がそもそもインチキなのだから、何を今さら、の感もあるけれど。排出権取引などは、本来的に詐欺に近いから、よほど間抜けでないと乗ってこない。そのため排出権の価格もCO2トン当り数千円程度で低迷している。それより高いと、誰も買わない。

要するに、新たな表向きの資金源やカネ集めの構図、成長要因がないのに、上記したように昨年10月以降から状況が変化したのだ。これは何故なのか?

考えられる一つの要因は、隠れた巨額の資金源がどこかにあって、そこから金融システムに資金が流入し、金利上昇の抑止や株高を演出しているのでは?と言う疑いだ。その主犯は、むろん米国の中央銀行=連銀だろう。そう考える理由は、リーマンショック以来、彼らはいわゆる金融緩和、つまりお札を大量に刷って金融システムに流し込むということをやって来たからだ。黒田の日銀もそうだった。植田総裁になって、ようやくマイナス金利などという異常事態の解消が行われたけど(ただし、今の状況でこの措置が真に良策だったかどうかには、議論がある)。

普通に考えたら、中央銀行がお札をバンバン刷って市場に流したらカネ余りになり、お金の価値が下がる、つまりインフレが起きてしまうはずだが、現実にはそうなっていない。今のところ、危機を先送りするために進められている裏資金注入は、上手く行っている。しかし、原理的に、いつまでも続くとは考えられない。どこかで破綻する。バブルがはじけるのだ。

取りあえず今年は米国で大統領選挙があるので、バイデン政権は金融システムの崩壊を防ぐために全力を尽くすだろうし、選挙後、新大統領も自分の代で金融崩壊を見るのはいやだから、何とか延命を図るだろう。問題は、それがいつまで続くかだ。現時点で、誰も正確に予測できてはいないようだが。

経済統計の数字などを見る限り、米欧日の実体経済は、不況とインフレの両方が悪化する「スタグフレーション」状態にあると見るのが冷静な見方だと思う。賃上げや株価・債券等の上昇で景気が良いなどと楽観するのは愚かしい。多くの人が騙されてそれを軽信していると思うが、現実は着々と進んで行く。

今、世界的な実体経済の中心は、資源を豊富に持つBRICSなど非米諸国に移りつつある。日本など米欧側の人間には、その実態がよく見えないでいるが、いずれ誰に目にも明らかになるはずだ。

追悼 M. ポリーニ

前回、現存のピアニストとして紹介したばかりの、M. ポリーニが死んだ。一番好きな音楽家だったのでとても残念だ。42年生まれの82歳だから「天寿を全う」の部類に入るが、指揮者とピアニストは長命者が多いので、彼ももう少し長生きしてくれると思っていたのに。前回触れたように、彼は「純粋音楽家」の一人だった、恐らくは、最後の。一つの時代が、確かに終わったのだとの感慨を抱かざるを得ない。

彼を最初に聴いたのは、1974年の初来日時、コンサートをFMで放送してくれた時だ。当時の私は大学1年、京都の下宿で一人暮らしをしていた。曲目はベートーヴェンの「6つのバガテル作品126」とピアノソナタ第32番つまり最後のソナタだった。どちらも素晴らしい演奏で、いっぺんに引き込まれてしまった。その録音はダビングして、テープがすり切れるほど聴いたものだ。あれから50年目に、遂に訃報を聞くことになってしまった。

京都の下宿でFMから流れる彼の演奏を聴いて以来、50年間もCDが出るたびに買って彼を聴き続けてきたが、演奏で裏切られた思いをしたことは、ただの一度も無い。生演奏は一度だけ聴いた。東京文化会館のリサイタルで、前半のモーツアルトは幻想曲と14番ソナタを苦闘しながら弾き、後半のベートーヴェンピアノソナタ17番と21番を別人のように楽々軽々と弾きこなして見せた。あの対照ぶりは忘れられない。

彼のCDは出るたびに買っていたのでほとんど全部持っている。正式録音はほぼ全部ドイツグラモフォン盤だが、輸入盤の中に見なれないライブ録音のが入ってたりして、見つけると大喜びで買ったものだ。中には、海賊版もあったかも知れない。今後、追悼版で未発売の録音が出ることを期待する(まだ残っていると良いのだが・・?)。

彼の弾く作曲家は、何と言ってもベートーヴェンショパンが中心だった。この二人のCDは数多い。再録音も結構ある。あと、シューマンが割と好きだった。ブラームスはソロ作品はほぼ弾かず、その代わり協奏曲を偏愛した。3度も録音したのはブラームスのピアノ協奏曲の2曲のみで、他は2度までしか正式録音したことはない。他のロマン派ではシューベルトは、初期に「さすらい人幻想曲」と16番ソナタを出しているが、その後は晩年の作品のみ録音した。リストはロ短調ソナタなどCD1枚分のみ。他には全く関心を示していない。

フランスものはドビュッシーのみを弾き、ロシア系はプロコフィエフとストラビンスキーが1曲ずつあるだけで、他はない。チャイコフスキーなどは見向きもしなかった。

あと、ポリーニは現代音楽作品の名手でもあり、バルトークシェーンベルクウェーベルン、ベルクなどの録音がある。ただし私には、ノーノやブーレーズの作品を聴いても、その良さを理解したとは言いがたい。現代作品で何らかの「美」を感じたのはウェーベルンの「ピアノのための変奏曲 作品27」だけである。あの曲は、ベートーヴェンピアノソナタ第29番第4楽章の、骨ガラだけ取り出したエキスみたいに聞こえるからだ。

古典派ではモーツアルトを割と好んだが、主に協奏曲ばかり弾き、ソロ作品はあまり弾かなかった。バッハは平均律第1巻しか録音せず、遂に第2巻を聴けなかったのが残念だ。彼はハイドンは1度も弾いたことがないと思う。こうしてみると、ポリーニの好みは案外広汎とは言い難く、親しかったカルロス・クライバーのように、特定の作曲家・作品を偏愛するタイプだったかも知れない。

彼は、人間としても素晴らしかった。18歳でショパンコンクールを断トツの1位優勝したのに、自分にはまだ学ぶことがあると言って、その後10年間も研鑽してからデビューした。同じコンクールで何とか2位になったら「今後は後進を指導して優勝者を出したい」などと、さっさと指導者面するような日本人ピアニストとは出来が違う。彼はインタビューでも慎重かつ誠実に言葉を選び、偉そうに振る舞うことは決してなかった。カネにも名声にも無頓着で、音楽一筋の人生だった。また彼は、自分の演奏会チケットが高騰するのを悲しみ、青少年向け限定のリサイタルを開いたことがある。

10年間の沈黙期の間には、貧しい人々のために場末の小屋でピアノを弾いたこともあったとか。彼は盟友アッバードや、共産党員だった作曲家ノーノとも親しく、常に弱い立場の人々への想いを忘れなかった。カネと名声が大好きな俗物音楽家は好まなかった。実際、カラヤンには何度も共演を持ちかけれても中々応じず、一度だけ共演したことがある一方、カール・ベームとは何度も共演し、CDも数枚残している(モーツアルトベートーヴェンのピアノ協奏曲)。また、ベームが亡くなったときは、リサイタルの最初にモーツアルトの「アダージョロ短調K.540」を弾いて追悼しているが、カラヤンの時は何か弾いたとの記録は残っていない。彼がどちらを敬愛していたか、明らかだ。そう言う意味で、彼は自分の好みを正直に出すタイプだった。

彼は死んでしまったが、CDやライブ録音は多数残っているから、彼の演奏は今後も長く聴き継がれて行くはずだ。偉大な音楽家は、長く忘れられずに生き残る。

ジョージ・セルのこと

指揮者ジョージ・セルを知る人は、もはや少ないと思う。1970年の大阪万博で演奏するため5月に来日し、数々の名演奏を残して帰国後の7月に亡くなった。つまり50年以上も前に没した指揮者である。

70年の来日時にベートーヴェン交響曲第3番「英雄」を聴いた吉田秀和は「これまでに聴いた「英雄」の、最高の演奏に属する」と絶賛している。70年来日時のライブ録音はいくつかCD化されているが、この演奏のCDは今のところ見当たらない。いつか発掘されることを期待する。70年東京ライブでCD化されているのは、モーツアルト40番以外には、ベルリオーズウェーバーシベリウスなどの小曲しかない。その時に彼は8回演奏したそうなので、まだ音源は残っているはずだ。

セルの演奏は、どんな楽団を指揮しても、アンサンブルが綺麗に揃いリズムの歯切れが良く、曲をキビキビと運ぶので分かる。彼の演奏を「完璧だが冷たい、機械的だ」と表する向きもあるが、私はそうは思わない。楽譜に忠実に、正確な演奏を心掛けているだけだ。

しかも彼の場合、キビキビと曲を運ぶが、決してセカセカした印象は与えない。休止符の「間」をしっかり取り、テンポはあまり動かさないが緩急はちゃんとつけているからだ。例えばベートーヴェン交響曲を聞き比べると、カラヤンやアッバードのベルリンフィル盤は、私には速すぎてついて行けない。なぜあんなテンポ設定にするのか、納得できないのだ。速けりゃ良いのか?(なおアッバードのウィーンフィル盤でのテンポ設定は納得できる。)

一方、セルの場合、やや早めのテンポでキビキビと運ぶが、決して速すぎるとの印象を与えない。しっかりと間を取り、作曲者の意図を十分に音化しているからだと思う。魅力的な凛とした響きが特徴なのだ。

その後種々のベートーヴェン交響曲全集を聴いたが、私の中のスタンダードは、スタイルは違うがセル・クリ-ブランドとベームウィーンフィルだ。クレンペラーのも立派だが。

彼の演奏スタイルが活きるのは、当然ながらハイドンモーツアルトベートーヴェンなど(古典派)である。これらの演奏はいずれも私の愛聴盤である。いつ聴いても心地よい。例えばモーツアルト交響曲第39番での音の透明感など、素晴らしくていつも聞き惚れる。

しかし一方、彼はブラームスブルックナーワーグナーなど(ロマン派)も上手かった。ブラームスは、スタジオ録音も悪くないが、交響曲第2番と第4番のライブ演奏は、これらの曲の最高の1枚に属すると思う。ライブで実力を発揮する音楽家は本物だ。スタジオ録音で後から「傷」を直すのとはわけが違う。

ブルックナーでは、彼は3番、7番、8番を録音しているが、他はない。ブルックナー交響曲第3番は少し風変わりな曲だが、セルは結構好きだったようだ。他の指揮者は全集以外にこの曲の録音例が少ないので、彼の例は目立つ。なお第8番は2回録音している。しかしなぜか、最高傑作と言って良い第9番の録音がない。演奏したとの記録もないようだ。この点が、私には謎だ。

ブルックナーについては別に書くつもりだが、彼の交響曲第9番がないのが不思議な指揮者として、セルとカール・ベームを挙げる。ベームは4番に名盤があり、他に3番、5番、7番、8番等を録音しているが、9番はない。9番は山ほどの指揮者で聴いたが、セルとベームの演奏でも聴いてみたかった。その点は心残りだ。

セルに戻ると、彼と手兵クリーブランド管弦楽団の凄さが良く分かるのは、例えばバルトーク管弦楽のための協奏曲、通称「オケコン」である。特にその終楽章が難しそうだ。私はこれを5種類のCDで聞き比べしたことがある。カラヤンベルリンフィル盤は確かに巧いが、髪振り乱して大汗をかき、終わってからもゼーゼー肩で息をしているような印象だ。片やセル盤では、異常に速いのにオケの呼吸がピタリと合い、各パートが一つの楽器で鳴っているような気がする。高速を走るベンツが速度と共に重心が低くなって、ピタリと動かなくなるように見える、みたいな。恐ろしく難しい曲を超高速で弾いているのに、その難しさ困難さを殆ど感じさせないと言う奇跡。これに近い演奏は、録音が古いフリッツ・ライナー指揮、シカゴ響の盤だった。当時のシカゴ響のレベルの高さが偲ばれる演奏だ。あと、ショルティとラインスドルフの演奏も悪くはなかったが、セルと比べたら見劣りする。それほどセルの演奏は際立っていた。

セルはマーラーも演奏しているが、6番、9番、10番と、声楽がない曲だけを選んでいる。6番は私はショルティ・シカゴ響の演奏を好んでいるせいか、セルやアッバード・ベルリンフィル盤は少しテンポが遅い気がする。しかし、こちらが楽譜に忠実なのかも知れない。

私の中でジョージ・セルは、お金も名声も栄誉も何も求めず、ひたすら音楽だけに身を捧げた純粋音楽家の、数少ない例だ。彼やクレンペラームラヴィンスキーなどがその類に属する。現存者ではピアノのマウリツィオ・ポリーニも多分そうだと思う。彼らと比べると、カラヤンとか彼の弟子の、最近亡くなった日本の「世界的指揮者」などは、まだまだ俗っぽいんだよなあ。お金やマスコミ名声が大好きで。

安楽死をめぐって

3月16日のTBS「報道特集」では、安楽死をめぐって多方面から取材を重ねた結果を放映していて、種々考えさせられる有用な内容だった。

まず、実際に安楽死を実行した二人が紹介された。一人はフランス人男性、もう一人は日本人女性だった。二人とも、外国人の安楽死が認められているスイスで、実際に希望通りに亡くなった。それまでのプロセスや、本人インタビューなども放映された。

スイスでの安楽死には厳しい4つの条件がある。1)耐えがたい苦痛(肉体的、精神的)、2)回復の見込みがない、3)代替の治療方法がない、4)本人の明確な意思が確認できる、の4点である。

さらには、資格のある医師が希望者と面接して、慎重に安楽死の是非を判断する。私には、このスイスの方式はよく考えられた、合理的なやり方に思われた。唯一の気がかりは、その判定する医師の資格や就任基準が明確に示されていない点だったが。

安楽死したフランス人男性は、事故で首から下が全く動かせず、しかも治せない種々の身体的苦痛に悩んだ末に安楽死を希望するに至る。家族の同意を得て、両親との別れも済ませ、最愛の妹が見守る中で、自分の口で致死薬の注入されるコックを開き、好きな音楽を聴きながら旅立った。

二人目の日本人女性はパーキンソン病で治癒の見込みがなく、一人暮らしの先行きを考えての決断だった。放置すればまだ生きることは可能に思われ、番組スタッフもその点を尋ねたが、身体の不自由と不快感その他を考えると、しっかり考えられるうちに決行したいのだと述べ、その通りに安楽死を実行した。いずれも、自らの意思をしっかりと持ち、迷いなく自らの死を演出した点が非常に印象的だった。

三人目の例は、実行直前に取りやめたケース。若い日本人女性で、全身に重い障害があり両親の世話で生きているのが辛いからと安楽死を希望した。両親は強く反対したが、本人の強い希望でスイスまでやって来て、医師の面接も受け、いざ実行と言う段になって本人に迷いが出たため、医師が止めて安楽死の実行には至らなかった。医師は、迷いがあるうちは実行しない方が良い、その決断は正しいと患者を励ましており、このシーンに私は強く心打たれた。

そして話題は日本に移り、安楽死が法的に認められることを強く危惧する声が紹介される。重い障害などがある患者の場合、周囲への負担感などから「自分はもう死んだ方が良いのでは?」と思うようになる、あるいは、そう思わせられる、つまり、安楽死を誘導ないし間接的に強制するような雰囲気作りに利用されるのではないかとの危惧だ。

これは日本でならば十分に考えられる事態だ。なぜなら、日本社会は、弱者に対して非常に冷たいからだ。実際、透析患者は社会への大きな負担を掛けているのだから早く死ぬ方が良いと公言した政治家がいる。また最近、成田悠輔という若い学者が「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」と繰り返し発言して物議を醸した。しかも彼は農水省財務省の広報に起用されているのだ。つまり日本政府は彼を公認している。

これらはいずれも、日本社会を広範に支配している新自由主義の現れと言って良く、要するに「弱い者は死ね、強い者だけが生き残れば良いのだ」との思想である。ここには、自分がその立場にだったらとか、いつか自分もその弱い立場になるかも知れないとかの想像力も、利他・慈悲の精神なども、一欠片とてない。すべてを経済効率で判断する価値観が支配する世界だ。

こう言う社会では、安楽死が合法化された場合に、一種の「悪用」が行われる危険性を排除できないと思う。危惧する声が出るのは当然だ。

ここで、スイスで安楽死した人たちの考えと日本での安楽死への危惧の声は、全く通い合わずにすれ違っている。前者は、自分の死に方を自分で決める権利を主張し、スイスの法制度はこれを支持する立場で合法化しているのに対し、日本での「危惧」は、要するに安楽死を便利に「利用」されることへの怖れだからだ。これは、個人の尊厳、死の迎え方に対する社会の基本的な姿勢の違いでもある。

そもそもスイスの安楽死4条件では、周囲から安楽死をたとえ間接的にせよ強制されるような事態は全く考えられていない。あくまでも個人の自己決定権の問題として捉えられている。

私もこの立場で、日本でも安楽死が合法化される方が望ましいと考える。ただし、間違ってもそれが変な形で「利用」され、単なる自殺幇助にならないような歯止めをかける仕組みの整備が要る。それには、多方面からの真剣な議論が必要だ。脳死の時のように。

脳死」の判定基準は、種々の議論を踏まえた末に、かなり厳しい基準で決められた。これは臓器移植の問題が絡んでいたこともあり、社会的な関心もニーズも高かったので、かなり早くから日本でも真剣に議論された末にガイドラインが策定された。

安楽死に関しても、自分の最期を自分で決められる権利の行使と言う立場で、悪用されない条件を厳しく設定して上で、法制化されたら良いと私は思う。

私は透析患者だから、透析を止めれば確実に死ぬ立場の人間だ。だから、もしも透析の効き目がなくなったり生きて行く条件が閉ざされるなら、自分で自分の最期をコントロールしたい。その意味で安楽死の社会的な受容と法制化を希望する。

もちろん、今の時点では死ぬ気はないし、書き残しておかなければならないと思うことが多いので、健康には極力留意し「生きて考えて書く」生活をできるだけ長く続けるつもりだ。

もう一つ、安楽死が問題になるような人たちよりも、自殺者、つまり本来なら元気に生きて行けるはず人たちが自ら死を選んでしまう例の方が格段に多いことに注意したい。日本では長い間、自殺者が毎年2万人以上もいる。1998年以降14年連続して3万人を越えていて、それ以降は減少傾向だったが、まだ、やはり毎年2万人を越えている。まずは、この人たちが生きて行けるセーフティーネットの構築が最優先課題だろう。

森永卓郎氏「書いてはいけない」を読む

経済評論家の森永卓郎氏が出版した最新刊「書いてはいけない」を読んだ。奥付は24年3月20日初版発行となっているが、Amazonに注文したらその前に届いて読むことが出来た。すい臓がんステージ4の告知を受けて、遺書として書いたとあるだけあって、内容は非常に重い。同氏はこれまで、TVラジオなどメディアの仕事をしてきて、決して触れてはいけない「タブー」が幾つかあり、これまでは書けずにいたが、がん宣告を受けて、死ぬ前に書かねばならぬと覚悟を決めて書いたのだと。

そのタブーとは少なくとも3つで、1)ジャニーズの性加害、2)財務省のカルト的財政緊縮主義、3)日本航空123便の墜落事件であると。同氏曰く「この3つに関しては、関係者の多くが知っているにもかかわらず、本当のことを言ったら、瞬時にメディアに出られなくなるというオキテが存在する。それだけではなく、世間から非難の猛攻撃を受ける。下手をすると、逮捕され、裁判でも負ける。」と言うことらしい。

実際、この話題を論じた原稿は、大抵の出版社に断られて本にできなかったとある。それに、ある時期を境に結構長い間、森永氏はTVに出ていない。恐らく、上記3件のどれかに触れた発言をした結果「干されてしまった」からだろう。その種の、TV番組のキャスターやコメンテーターで、政府のご機嫌を損ねて結局は降板に追い込まれた例は、幾つか知られている。NHKを辞めて民放に移籍して、現在も取材・報道を続けている例が実際にある。

実は私も、温暖化・脱炭素批判の本を出そうと思って、ある大手出版社に打診してみたのだが、あっさりと断られた。むろん私が無名なせいもあるだろうが、他にも理由がありそうだ。

森永氏の原稿は結局、三五館シンシャと言う、社長一人でやっている出版社から出ることになった。それで最初に出たのが23年5月の「ザイム真理教」で、部数は10万部を越えたと言う。そしてこの24年3月の「書いてはいけない」である。この2冊は、装丁がそっくりである。

「ザイム真理教」については、私の経済学理解が不足しているため、現時点では自分で納得の行く論評ができない。今読んでいる柄谷行人トランスクリティーク」を消化して、貨幣・資本・利子・余剰価値などへの本質的な理解を深めてから試みたい。

「書いてはいけない」で私が最も評価するのは、第3章「日航123便はなぜ墜落したのか」である。なお、この墜落は「事故」ではなく「事件」と呼ぶべき事象であり、森永氏はそれを実行している点にも注目願いたい。

日航機墜落事件に関しては1月にも書いたが、非常に重要な事柄であるにも拘わらず、大手マスコミには一切無視されたまま時間が経過している。これまで出された多くの関連出版物でマトモな内容のものは、青山透子氏の6冊と、遺族・小田周二氏の3冊であるが、青山透子はペンネームであり、小田氏は一般人であるため、本の「権威」というか、知名度・拡散率が実名・著名人の著作と比べて相対的に低く、マスコミの注目も浴びにくかった。もちろんその裏には、日航関係者その他の妨害もあっただろう(知られている実例もある)。その点で、森永卓郎と言う著名な人物が実名で書いた本の中で、この事件に関する詳細な記述を行ったことは画期的だと言える。

実際、森永氏のこの本を読んで日航機事件の実相を初めて知ったと言う人も多く、かなりの反響を呼んでいるらしい。参考までに、上記に挙げた本を全部列挙しておこう。

青山透子氏の著書(出版先は全部、河出書房新社):1)「日航123便 墜落の新事実」2017年、2)「日航123便墜落 疑惑のはじまり」2018年、3)「日航123便墜落 遺物は真相を語る」2018年、4)「日航123便 墜落の波紋 そして法廷へ」2019年、5)「日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす」2020年、6)「日航123便墜落事件 JAL裁判」2022年。

小田周二氏の著書:(出版先は全部、文芸社):1)「日航機墜落事故 真実と真相 御巣鷹の悲劇から30年 正義を探し訪ねた遺族の軌跡」2015年、2)「524人の命乞い 日航123便乗客乗員怪死の謎」2017年、3)「永遠に許されざる者 日航123便ミサイル撃墜事件及び乗客殺戮隠蔽事件の全貌解明報告」2021年。

これらの中で森永氏が触れているのは青山氏の1)、3)、5)、小田氏の2)、3)である。私はこれらをほぼ全部読んでいるが、同氏の引用は正確である。また、興味深いエピソードも載っている。

森永氏はある雑誌に青山氏の1)の書評を書いたのだが、なぜか、青山氏の東大の博士論文が検索にかからないと言う理由で、大事な部分を丸ごと削除した原稿に改変されて世に出されたと言う。青山透子と言う名前はペンネームで、本名ではないから検索にヒットしないのは当たり前だったのに。また数年後に、今度は大手新聞から、今まで一番感動した書籍の書評を書いてくれと依頼され、再びこの本を取り上げたところ、雑誌が新聞の系列で書評は一度しか書けないからダメだと断られたと言う。他の雑誌やタブロイド紙はその書評を載せてくれたのだが。要するに、大手新聞社系のみ、あれこれ理由をつけては、森永氏が青山氏の本を宣伝するのを妨害したわけだ。なぜ、そこまでして・・?

なぜ日航機墜落事件が重要か?その理由は本書第4章「日本経済墜落の真相」に述べられている。つまり、この事件をきっかけに、日本経済を取り巻く「潮目」が大きく変わったからだと。具体的には、墜落の1ヶ月後の85年9月に決定された「プラザ合意」によって、各国の協調介入により急激な円高がもたらされ、日本経済は大打撃を受けた。何しろ、それまで1ドル240円台だったのに、2年後には1ドル120円台にまで円高になった。これは輸出商品の価格が2倍になったのと同じである。なぜこんな不利な合意をしたのか?その後の日米半導体協定も含めて、日本政府が不利な妥協を重ねたのは、日航機墜落に関して何か重要な秘密を握られていて、それをネタに脅されていたからではないか?と言うのが森永氏の推察である。

もちろん、そんなものは「陰謀論」だと一笑に付す向きもあるだろう。その正否を検証するには、墜落機のボイスレコーダーとフライトレコーダーの生データを調べたら良い。公開されているデータは、何らかの改変を受けた形跡があるので、手を入れていない生データが是非とも必要なのだ。衆人環視の公開の場で、生データの開示を行えば良いのだ。それで決着する。

実際、その生データの開示を求めて、遺族の一人が請求訴訟をしているのだが、一審・二審とも不可解な裁判経過を経て、現在は最高裁で審理中である。この裁判の経過は青山氏の著書6)に詳しく書かれている。これを読むと、日本の司法って大丈夫なのか?と思わざるを得ない。この点でも、マスコミが大注目して、おかしな判決を出させないように監視する必要があるのだ。森永氏のこの本は、その大きな助けになる点でも有用性が高いと思う。

私の好まないもの その1

以前、ヒゲを伸ばす男について書いたが、それと類似の、私から見て「好みに合わないもの」が世の中には色々とある。むろん「私から見て」なので純粋に個人の好みに過ぎないが、鬱憤晴らしの意味も込めて、文章化してみることにする。以下は、私の目から見て、世の中から無くなれば良いのにと思う事柄である。

まずは初回として、「食べ物・食べること」に関することを書く。

a) 大食い・早食い競争:食べ物をひたすら早く多く食べる能力だけを競うことに、どれだけの意味があるのか、私には分からない。速く走ったり泳いだりするのも同じ「身体能力」だが、早食い大食いは「スポーツ」と言えるのか大いに疑問だ。単に、胃袋がどれだけ大きくなるかの能力を競っているだけだから。それに、目を白黒させてまで食い物を飲み込む様は、どう見ても浅ましい餓鬼の姿だ。この競争に勝って偉そうにする人間の神経が、私には理解できない。

人間を含む「従属栄養生物」は、植物などの「独立栄養生物」が無機物から合成してくれた有機物を摂取しないと生きて行けない。だから、食べ物はすべて天から授かった「頂き物」なのだ。有難くいただく他ない、貴重な贈り物である。その意味で、早食い・大食い競争には、食べ物に対するリスペクトが感じられない。そこが、最も気に入らない点だ。

大食い自慢の人って、一体何が自慢なんだろうか?欲望のまま食ってデブになるのは浅ましいし、いくら食っても太らないのを自慢にするのも、結局は食べ物を無駄に食っていることになる。人間も動物も、食欲のままに食えば肥満になる。だから動物園では与えるエサの量を加減したり断食させたりしている。人間も、過食は避けて、慎ましく食物を「有難く」いただくのが良いのだ。「腹八分目」というのは、多分正しい生活の知恵だ。

少なくともTV番組などで「早食い大食いコンテスト」等を放送するのは、止めてもらいたい。

b) 食べ跡が汚いこと:食事の後、皿や食器が汚らしく乱れている様は、醜い。これも上記と関連するが、食べ物に対するリスペクトの欠如だと思う。野菜やパセリの食い残しが多いが、出された食べ物は好き嫌いせず基本的に全部食べるべきだ。残すくらいなら、最初から少なめに注文すれば良い。立ち去った後、いかにも「食い散らかした」印象を与えるテーブルは、どうにも、情けない。

いわゆる「食べ歩き」の後で、ゴミが大量に落ちている様も見苦しい。食べた後はどうでも良いのか?人間、何につけても「後始末」が大事なことを知らないんだな。

c) グルメ偏重主義:昨今はネット情報の中でグルメ関連も実に数多い。どこの店の何が美味いのどうの、と載るとワッと殺到する。ミシュランの星の数などで食い物屋のランキングが決まってしまう。私も美味いものは大好きだが、いわゆる「グルメ」主義ではない。高いものが美味いとは限らないし、あの種の情報だけに踊らされるのは、好みでない。

実は私は「食べログ」でトンカツ部門の東京ランキング1位から10位までを食べたことがある。東京全域でのランキングなので、当然店は各地に散在していた。それで、仕事で出張した折りに、予め場所を調べておいて食べに行ったのだ。これくらいの上位店だと、どこでも行列しないと食べられなかった。しかし、これらを食べ比べて分かったのは、自分の好みとランキングは必ずしも合わないと言うことだった。ランク1位の店は流石に見事だったが、私が一番美味いと思った店は、実はランク5位だった。以後、その店にだけは足を運ぶ。その他に、神田の小さなトンカツ屋でヒレカツが驚くほど美味な店に出会い、その両店が東京での私のトンカツ屋の定番になっている。

トンカツと言う料理、たかが豚肉を油で揚げるだけなのに奥が深く、出来不出来には雲泥の差がある。使う豚肉の質が一番だが、他にも衣、油、揚げる温度や時間などで、印象は大いに変わる。美味い店のは、出てきたときのプーンとする「香り」からして、既に違う。それに、美味い店は、カツだけでなく味噌汁やご飯、香の物、お茶までも美味い。つまり仕事が全体的に行き届いている例が多い。天ぷらなども同じだが。

逆の例で、NHK「仕事の流儀」に出てきたカツレツの「名店」を訪ねて行って、大いにガッカリしたこともある。目の前でカツを揚げている店主の顔は、確かに番組で見た顔だったから、その当人が揚げてくれたことは間違いないが、出てきた料理は私を全然満足させてくれなかったのだ。番組では、お客がいかにも美味そうに頬張っていたのに。

結局、味の好みは各人が実際に食べて判断するしかない。他人の判定は参考資料に過ぎない。私自身も「食べログ」や「ぐるなび」を参考にはするけれど、ランキングや口コミ評価はあまりアテにしない。実際に食べてみて、評価が全然当てにならないと身に沁みた事も多い。

今日もあれこれと

3月になって早9日だ。今週は火木と出張続きだったので仕事場でパソコンに向かう暇がなかった。来週も火曜が出張なので次は14日の木曜になる。それでは毎日溜まるメールが処理しきれないので、仕方なく土日も、午後だけだが仕事場に来る。メールが1週間以降は消去されるので、それ以上の間隔では大事な連絡等が消えてしまう心配もある。やはり週3日、透析で拘束される不自由は大きいが、これは仕方がない。

まあ取りあえず、2月中に税金の申告関係は全部終えたし、国際学会の発表も無事終えた。来週の出張が済めば一段落する。書きたいこと、書かねばならないことはたくさんあるが、書くためには調べたり確かめたりする必要があるので、滅多矢鱈に書いては出す、とは出来ない。

ある知人の話では、facebookに一日何度も送信してくる人がいるそうだ。何かにつけ、意見感想その他を書き殴ってくるらしい。書き殴ると形容したのは、打ち間違いが多くて読みにくいから。つまり、その人は自分で書いた文章を読み直すこともなく送信しているようなのだ。これでは、受け取る側はたまったものではない。はた迷惑な行為と言うべきだろう。

私自身はSNSの類は一切やらない。facebookに誘われたこともあるが断った。返信しなければならない点が煩わしい。返信する義務はないが、無視していると取られるのも鬱陶しいのだ。アゴラ等に載せた論説に寄せられたコメントなどを見ても、碌な反応はないし、多くは単なる誹謗中傷だ。つまり、中身はロクに読まずに、ただ貶めて憂さ晴らしをすることだけを目的とする書き込み。そんなものを読んでも精神衛生に悪いだけで建設的な契機は何も無い。だから私は、この頃コメント欄は一切読まないようにしている。必要な連絡などは、個人的なメールやLINEで済むので、一般に公開する形のSNSはやる気がしない。もちろん、そのために社会的な拡がりに欠けることは承知の上だ。こうして、ネットの片隅でひっそりと感想などを書いておけば、いずれ誰かが読んで広がることはあるかも知れないが、自分から積極的に売り込む気はない。言わば日記代わりの備忘メモみたいなものだ。

今の世の中、ネット社会の拡がりの中で、例えば大谷選手の結婚みたいなニュースはあっという間に拡がる一方で、311の避難者は「元の土地に帰還する意思のある人」だけが「避難者」として扱われる事実などはほとんど知られない。つまり、種々の理由で故郷には戻らないと決めた人たちは「避難者」にカウントされないのだ。福島原発事故がなければ、平和に故郷で暮らせたはずなのに、本人たちの意思とは無関係に無理やり故郷を去らなければならなかった人々ばかりなのだが、この規定はそんなことを全て、無慈悲にも無視してしまう。国も東電も、何という冷酷さであることか。国策で進めた原発政策であるのに。

また福島で海水に放流されている水の中にはトリチウムだけでなく、ALPSで取り切れなかった百種類以上の放射性核種が含まれたままであることも広くは知られていない。ただただ「トリチウムは低濃度なので安全安心だ」しか伝えられていない。トリチウムは化学的には水素なので生物体に濃縮されることはないから、薄めれば薄めるほど安全度が高まるのは確かだが、他の各種は金属元素の場合、多くの核種が生物濃縮する。この場合は薄めても無駄だ。時間と共に蓄積量が増える。結局は放出を止めるしかない。

自民党の裏金問題も、散々騒がれて政倫審まで開かれたが、結局は何一つ明らかになっていない。裏金還流の仕組みがどのように始まり継続してきたのか、裏金を何に使ったのか等々、誰も彼も「私は知らなかった」の一点張りで、明らかになった事実はほとんどゼロに近い。まさかこれで幕引きなどと言うことがないように、我々国民は凝視続けなければならない。本当は、国会でふざけた答弁をした議員は、落選運動を起こして次の選挙で痛い目に遭わせないといけないのだが。