先だって、BSPで「ハイドンからライヒへ 弦楽四重奏曲の進歩」という題の音楽番組を見た。興味深い内容だったが、先に結論から言うと、ハイドンからライヒへの歩みは果たして「進歩」なのか、私には疑問に思える。
私が聴いた限りでは、弦楽四重奏曲は、最初のハイドンで既に最高クラスの高みに達し、モーツアルトとベートーヴェンで明確に最高の作品が出現した、その後は、その「残響」のようにブラームス、シューマンの各3曲があり、その後は「現代音楽」化して現在に至る、と言うのが基本的な考えである。実際、私が日常的に聴くのはベートーヴェンの第7番以降と、モーツアルトの第14番以降がメインで、他は時々しか聴かない。ベートーヴェンの第7番以降については前に少し書いた。モーツアルトの第14番以降については、また後日書くことにしたい。
私は、ロマン派のシューベルトやドボルザークの弦楽四重奏曲は好んでいない。聴いていて飽きてしまうのだ。メンデルスゾーンはごくたまに聴くが、ベートーヴェン以後ではブラームスとシューマンの各3曲を好んで聴く。あとはドビュッシーも割に聴くが、ラヴェルはあまり好まない。バルトークとショスターコヴィチも、全曲聴いて幸せな気分になれたかと言えば否だ。彼らの作品には聴くべき内容も確かにあるとは思うのだが、後期ベートーヴェンの諸作品から得られる充実感からは遠い。ただし、これらの作品も、また聴き直せば別の魅力が発見できるかも知れない。
20世紀以降の現代音楽ではプロコフィエフ、シェーンベルク、ウェーベルンの弦楽諸作品があり、これらには一種の「凄み」を感じる。ヒンデミットは、現代音楽諸作家の中で私が一番多く聴く一人だ。彼の作品には興味深いものが多い。その後のブーレーズ、ケージ、クセナキス、シュトックハウゼン辺りになると、私の耳と感性ではついて行けない。ピアノ系作品で名手ポリーニの演奏で聴いても、殆ど終わりまで聴いていられない。「音楽」として、受け入れられないからだ。
今回聴いたライヒは、彼らよりは聴きやすいが、同じ音型を延々と繰り返すので、数分経つと、もういいや、と言う気分になる。あの種の音楽は、ガムランなどの民族音楽からヒントを得ているはずだが、この単調な反復は「音楽的」と言えるのか私には疑問だ。念仏を聞いているみたいな気がする。念仏のような宗教的行為には、この種の同音反復にも意味があると思うが。
それと、今回聴いたライヒの作品では、録音された音声や文字情報が流れて、それも「売り」の一つになっているが、私にはこれも一種の邪道のように思える。弦楽四重奏曲は、4本の弦の響きだけで勝負する純度の高い音楽だと思うからだ。
もう一点。今回のライヒの作品は第二次世界大戦を3部構成で描いているが、音楽表現として戦争や人殺しの残酷さを示すものとしては、例えばF. プーランクのヴァイオリンソナタに及ばないと思った。プーランクの音楽には、軽妙で洒脱なユーモアを感じさせる作品が多いのだが、唯一のヴァイオリンソナタは全然違う。冒頭から切迫した緊張感と悲しみの表現が来る。そして最後は、銃声が鳴ったような響きで終わる。作曲者が、革命に従事した友人が暗殺されたことを聞き、その友人を追悼するために書いた曲だと言われているが、この曲の表現の切実さは見事な忘れ難いものだ。20世紀に書かれた弦楽作品として、プロコフィエフのヴァイオリンソナタ第1番と双璧の傑作だろう。あとこれに匹敵するのは、ショスターコヴィチの遺作のヴィオラソナタくらいかな。
弦楽四重奏曲に戻るが、ハイドンの作品は真作が68曲あるとされている。よく聴くと、なかなかの名曲が多い。作品20の「太陽四重奏曲」辺りから、すでに名品が幾つかある。その後も「ロシア」「プロシャ」「第1~3トスト」「第1~2アポニー」と続き、作品76以降の9曲はいずれも傑作揃いだと思う。特に最後の作品77の2曲と作品103は名曲で、後期ベートーヴェンを想わせるほどの高みに達している。ハイドンで既にかなりの高みに達しているとは、そのことだ。
今回の放送でもハイドンの作品76-2の「五度」を演奏していた。この曲も私の大好きな一つ。演奏は東京芸大の卒業生たちの楽団で、芸大の秀才らしく細かい点まで神経の行き届いたものだったが、私の意見では、ハイドンはもう少し軽やかに愉しげに弾いて欲しい。
弦楽四重奏曲はピアノ作品と並んで、私が最も好んで聴くジャンルである。音楽の最も純粋な形に思えるからだ。これからも、バッハと並んで私の音楽生活の中心を占めるはずだ。