今まで読んだ吉村昭の作品

吉村昭の作品は若い頃から中年期まで、ほとんど読んでこなかったが、読みやすいので透析中の読書対象としてはうってつけで、私はこの2年ほどで下記の20冊を読んだ。まだまだ読んでいない作品が多いので当分は楽しめそうだが、現時点での作品の紹介と感想を、断片的ながら記しておこう。

吉村作品の魅力の一つは、彼の文体にある。簡潔明快ながら、風景や事物の描写力に優れ、常に臨場感を感じさせる。心にグッとくる場面でも感傷的な言葉を決して使わず、泣き言を書かない。この「潔さ」が、まずは吉村文学の魅力を支えていると思う。明晰で冷徹な文体は、大岡昇平城山三郎なども共通していると思う。彼らも、感傷性からは遠かった。

また、吉村の取り上げる題材として、例えば歴史ものでも英雄豪傑を描かず、天下国家を論じないで庶民や下層の人民を描く。同じ幕末・明治期を描いても、司馬遼太郎のような描き方をしない。私自身は、司馬遼太郎の作品や文体をあまり好まず、吉村昭に圧倒的に惹かれる。

以下、私の勝手な分類で、読了したものだけを取り上げる。

1)実録もの:熊嵐、漂流、破獄、闇を裂く道、高熱隧道、破船、三陸海岸津波関東大震災吉村昭が最も得意とした分野だろう。なぜなら、彼は常に綿密な取材をして資料やデータを集めて書いたから。熊嵐など、北海道のヒグマの、身の毛もよだつほどの恐ろしさを十分に伝えてくれる。あの描写力はすごい。熊を退治するつもりで集まったのに、実物を前にしてビビる多くの人間と、冷静沈着に一人で熊を仕留める変わり者ハンターの対照も、見事に描く。今年はアーバンベアやOSO18など熊関連の話題に事欠かなかったが、多くの人はまずこの作品を読むのが良いと思う。熊を撃つなんて可哀相だ・・などと言う人は、まずは実際のヒグマと対面したら良い。バリバリと骨まで噛み砕かれても、そんなことを言っていられるかどうか・・。破獄は、緒形拳主演のTVドラマを見て興味を抱き、読んだ。ドラマに出てくる、身体検査で肛門まで調べている最中にプーっと屁をして検査官に嫌がらせをし、後で思いっきり殴られるシーンには笑ったが、実は原作にない演出だと分かった。ドラマでは緒形拳津川雅彦の熱演に痺れたが。原作は、戦中戦後の刑務所を取り巻く行政史の側面もあって、主人公の脱獄だけに興味のある読者には余計な記述に思われるかも知れないが、私には種々興味深かった。囚人たちの暴動を防ぐために、食事の質を、刑務官より囚人用の方を上げたことなど。脱獄不可能と言われた監獄を、4回も脱獄して見せた主人公の工夫と執念は人間離れしていて、非常に興味深かった。彼の最後の様子も、心に沁みる。

他に、闇を裂く道高熱隧道などはトンネル工事をめぐる記録だが、特に前者は丹那トンネル開通までを描いた力作で、トンネル1本のために丹那盆地の水脈が枯れ、水田耕作やわさび栽培が不可能になって大騒ぎになった経緯などが描かれている。現在工事中のリニア新幹線でも、同様の水涸れが起きないのか、私は大いに疑っている。この作品を読めば、大自然の力の前に人間など無力な存在に過ぎないと思い知らされるからだ。漂流破船も、面白い。どちらも船の難破が主題だが、前者は漂流した乗組員、後者は陸で船が難破するのを待ち構える人間たちが主人公だ。特に後者では、難破した船を「お船さま」と呼び、夜通しかがり火を焚いて困窮した船を引き寄せるのだ。そして衝撃的な結末を迎える・・。三陸海岸津波は、東日本大震災以後に、予言的な作品として再注目された異色の作だが、関東大震災も、小池東京都知事や日本政府などが無視している朝鮮人虐殺事件などを正確に描いていて、現在でも一読に値する。日本人が、一体何をやらかしたのか・・。

2)幕末~明治期もの:ふぉん・しいふぉるとの娘、雪の花、白い航跡、アメリカ彦蔵

吉村昭は、幕末から明治期にかけての日本と海外の文化的・政治的交流に、強い関心を抱いていたようだ。上記の諸作品はいずれも力作で、大いに感銘を受けたものばかりだ。ふぉん・しいふぉるとの娘の主人公お滝の不屈の精神力、白い航跡の主人公高木兼寛の熱い科学者精神と行動力など、現代人の模範となる姿だ。雪の花は、幕末時代に種痘を実施しようとして苦労した医師の物語。いつの時代でもそうだと思うが、何か新しいことをやろうとすると常に頭の固い抵抗勢力が現れて邪魔をするが、幸運にも先見の明ある上司や権力者がいると道が開けることが多い。日本発の新聞社を起ち上げたアメリカ彦蔵の物語も面白い。

3)戦争関連:戦艦武蔵、背中の勲章、殉国、総員起シ、プリズンの満月

いずれも興味深い作品だが、共通するのは、上記したように、主人公は英雄豪傑や偉業を成し遂げた人物ではなく、陰で黙々と働いた技術者(戦艦武蔵)や、種々の事情で辛い立場に追いやられた人々を主に描いている点だ。背中の勲章は、太平洋戦争で最も早い時期に捕虜になって種々辛酸を舐めた人の話だし、総員起シは上官の身勝手のために殺された下士官などが描かれる。いずれも、戦争の末端で犠牲になった人たちに、吉村昭は熱い思いを捧げているが、文章はあくまでも抑制的なのだ。この点がまた、読むものを泣かせる。プリズンの満月は、巣鴨プリズンの刑務官の立場から東京裁判を批判する、異色の作品。表題にもなっている、満月のシーンが印象的。

4)医学関連:消えた鼓動、冷い夏・熱い夏

吉村昭本人が、結核で死にかけたこともあり、医学に興味を抱き、その関係の作品をかなり残している。私が読んだのはまだ数少ないが、消えた鼓動は、日本初の心臓移植をめぐる疑惑を取り上げた作品。この作品を書くための取材ノートに相当する記録も出されている。これもまた、彼の綿密な取材力が光る作品。冷い夏・熱い夏は、弟がガンで亡くなるまでの記録。読んでいるのが辛いほどの作品だった。今まで、吉村作品で読むのを止めようかと思ったのは、これのみ。

5)その他:仮釈放

分類困難なこの作品は、3人を死傷させて無期懲役になり、15年後に仮釈放されて出所した男の物語。長く囚人をやっているとこんな習慣や思考法になるものかと、非常に興味深く読んだ。結末は悲劇的なものに終わってしまうのだが、吉村昭は、非情なまでに冷静に全てを描く。これがまた、彼の魅力だ。

今後も、吉村作品は私の透析読書の良き友であり続けるだろう。