12月の雑感

今年も残り10日になった。まあ、暦なんてものは天体の移動を基に、人間の都合で勝手に作ったものなので、自然界から見れば何の意味もない。元旦の朝に人間は「初日の出」を拝むけれど、日の出は毎日起こり、その時の一回限りという意味で常に毎回更新される。自然界から見て、人間の決めた「1月1日」に特別な意味があるわけではない。当然、元旦の「初日の出」にも。1日1日、それぞれが同じ価値を持って重要で、毎日が「かけがえのない一日」である。

しかし、人間たちは暦を作り、それに従って様々な行事を行う。今は、キリスト教徒でもないのに「クリスマス」一色で、次が年越しと正月、次に成人式や大学入学試験、2月はほぼ何も無いが3月の年度末と4月初めには各種の式典が続く。

現役の大学教師時代には、世間ではヒマな2月が1年で最も忙しかった。1月からセンター試験その他で忙しいのに、2月になると期末試験の出題と採点・成績つけ、卒論・修論の締切と発表会があり、論文手直しや発表練習にも付き合う。さらに前期入試も重なる。とにかく手帳が真っ黒で空きが何も無い生活だった。あの頃を思うと、今は天国だな。

この17日に、大学の学部時代の同級会があって参加してきた。思った以上に楽しかった。学部時代は、自分の中でクラブ内の人間関係が圧倒的に大きかったので、クラスの仲間とは別に不仲ではないが親密には付き合っていなかった。3年の夏にクラブを辞め人間関係が希薄になっても、クラスの友人と特に親しくなったことはない。当時は失恋の痛手が大きくて、人間嫌いになっていたので、誰とも親密になる気にはなれなかったからだ。毎日黙々と授業に出て実験や実習をこなし、アルバイトの家庭教師以外には他人と口をきくこともなく、本ばかり読んでいた。現実世界には不思議に現実感がなく、本の中の世界こそが現実であるかのようだった。

それに学部卒業後、大学院は別の地域に移ったので、その後は大半の同級生と音信不通になった。正直に言って、彼らを思い出すことも殆どなかった。僅かに1名だけ、仕事の関係で関係が出来て年賀状を交換しているが、会ったことは一度も無い。そんな状況の中で、突然、同級会の案内ハガキが届いたのだった。一瞬戸惑ったが、逆に、思い出の少ない学部時代の友人たちと会ってみたくなったので参加する気になった。学部時代の「青春」を思い出すために。

同期会は予想以上に楽しかった。45年も音信不通で、お互いすっかりジジイになり顔さえ良く分からない仲間でも、話しているとだんだん昔のイメージが戻ってきて、人間、本質はそう変わらんものだと思った。それに、お互い山も谷も乗り越えて今に至って見ると、自然にお互いを労る気持ちが湧くようだ。達成感も挫折感も取り混ぜて。何となく、闘い終えた老兵たちの会、みたいだった。大学の仲間は良いなあ。大学院での知り合いは、お互い二十歳台半ばを過ぎていたせいもあって、特に親しくはならなかった。こちらも研究室仲間以外、音信不通だ。小・中は遠すぎるが、高校・大学は似たレベルの人間が多いせいもあって、友達と言えるのはこの時代の知人ばかりだと言う事実もある。私の場合は、ごく少人数だけれど。

透析読書で、柄谷行人の「世界史の構造」を読みはじめた。500頁以上の大冊だが、かなり面白い。世界を見る目が変わりそうな予感。例えば、有名なハムラビ法典の「目には目を」を「やられたらやり返せ」と読むのは間違いで、その本当の意味は、刑罰の量刑を法で決めることなんだと書いてある。言われてみれば、なるほどその通りだ。他にも、国家の起源や貨幣の成立史など、興味深い考察が並んでいる。世界史や現代社会を見る「目」が、変わって行きそうだ。この本の続編として「世界史の実験」(19年2月)と「帝国の構造」(23年11月)が待っている。ここまで読めば、柄谷行人の現地点に近づけるだろう。