始めて3ヶ月目の感想

今年の6月22日に書き始めたこのブログ。6、7月と11回ずつ載せたので、3ヶ月目の8月もそれに合わせようと、31日の今日になって無理やり書いている感じだが・・。

実は、この「はてなブログ」の正面玄関から入ると、私のブログはどこにあるのか分からない。一度だけ「ようこそブログ」に短時間載ったことがあり、その期間だけ見ることが出来たが、それが終わると見えなくなった。膨大な記事の中に、埋もれているのだろう。

ブログにも色々な分類があるけれど、私のブログはどの分類にも当てはまらない感じ。自伝的内容から、音楽に触れたり、哲学・宗教的な内容もあり、スポーツ話あり、時事的話題にも触れているから。他にも論じたいテーマが色々ある。私の頭の中にある考えや感想などを、生きている間にできるだけ書き残しておきたくて書いているので、誰かの気に入られたいと言った気持ちは全然ない。だから、あまり目立たない所で、ひっそりと書き続けるのは案外合っているかも知れない。

最近読んだ本の感想で言えば、柄谷行人と言う思想家について、これまで敬遠してきたことを後悔している。彼が小林秀雄吉本隆明に影響されていたのは事実だが、私は彼がこの二人と同類と見なし、やや敬遠してきたのだった。しかし、それは間違いだった。

小林と吉本は、今でも多少そうだが、実際よりも「誇大広告」されているのではないかと私は思う。例えば、小林は種々勘の鋭い人で、多くの興味深い評論を書いたが、彼の仏教理解はかなり浅薄だった。「無常といふこと」などを書いているくせに「無常」概念とヘラクレイトスの「万物は流転する」を混同していた。両者は正反対の考え方なのに。

吉本隆明の本は、どれもほとんど理解できなかった。論理展開が無茶苦茶で、ついて行けない場合が多かった。例えば国家は「共同幻想」の産物だと言うが、そう言う面はあるにしても、国家には組織があり軍隊や警察と言う暴力装置があり、それ自身の意思を持つ実体だ。それを無視した国家論など、幻想に近い。彼は、自分の思いつきと現実を混同していたとしか思えない。彼の親鸞論も、主著の「教行信証」を使わず、専ら「歎異抄」に依っていることに幻滅した。親鸞を論じるのに「教行信証」を使わないとは、結局読みこなせないからではないのか?

そんなこんなで、柄谷行人を敬遠していたのだが、最近、彼と作家中上健次との対談集や、岩波新書「世界共和国へ」「意味という病」などを読み、彼の思考方法に大いに共感を覚えた。彼がマルクスの可能性に注目していることも、私の興味を惹く。マルクス主義ではなく「マルクス」の考え方には、未来社会を展望する要素が含まれていると私も思うからだ。今後、柄谷の本を息長く読み、思考の糧にしようと思う。

吉本の本を読んでほとんど理解できず(=何を言っているのか分からない)、自分の読解力が劣るのかと思ったが、井筒俊彦加藤周一の文章は問題なく読めるので、問題はやはり、読者にではなく著者にあると思うことにした。柄谷行人の文章は、難しい内容を書いているので易しくはないが、論理展開に飛躍がなく、意味もなく曖昧な表現も取らないので、理解はできる。

このブログも、こうした内容に触れながら日々続いて行くと思う。