昨日の続き

仏教哲学での時間の捉え方は、前回書いた私の考えに近い。と言うより、以前から考えていた時間への考え方が、仏教思想を学ぶことでより強化されたと言える。

キリスト教などの一神教では、創造主たる「神」が全てを創ったと考え、時間は宇宙の創造から最後の審判まで一直線に流れるとされる。日本人も、この考え方に慣れてしまっている。

一方、仏教では、輪廻の考えその他で分かるように、時間は直線でなく循環的な存在であるとともに、「刹那生滅」と言う考え方を取る。これは、全ての存在が瞬間的に生起し、次の瞬間には消え去ると言う考え方だ。ちょうど、映画やTVのように、個別に見れば固定的な1コマだが、非常に短時間に移り変わるので、物事の変化が連続的に進むように見える、と考える。

これは、人間の意識が「一刹那」の間に生成・消滅を繰り返す(これが刹那生滅)心の相続運動であると考えることによる。従って、この世界は、我々の意識で認識する限り、非常に短時間の間に生成生滅を繰り返す存在なのだ。仏教徒であった道元も、時間は連続して流れるのではなく、断絶するものだと、正法眼蔵の中で何度も述べている。

この考え方は、現代日本人には抵抗感が大きいと思うが、人間の意識の在り方から見て、相当に正しい見方だと思う。実際、現代科学の実験成果によると、人間の意識下では、0.01秒より短い間隔を認識できないらしい。これは0.01秒間隔で点滅する電灯は連続して光って見えると言う意味だ。つまり、現代的な解釈で言えば、仏教の言う「刹那」とは、0.01秒に相当する。

言い換えれば、我々の表層意識では分からないけれども、実際には我々の意識の実際は、0.01秒より短い間隔で点滅する光に例えられると言うことだ。非常に短い間隔での生成・消滅。

現実世界では、人は生まれ、老いて死んで行き、自然も風景も社会情勢も時々刻々様変わりし、それを描けば歴史になり年表になるので、時間が流れていったように見える。昔の化石や遺跡も、確かに現存する。

しかしそれは、事物が常に絶え間なく変化し続けてきた・今でもそうである、ことを示すだけで、時間が物理的に実在する証拠にはならない。変化し続けた結果が目の前に積み上げられているのは事実だが、我々が居るのは常に「今、ここ」の現時点だけで、その前後は「無い」のだ。1秒前に戻ることも、1秒先に行くことも、絶対に不可能だろう。実際には不可能の証明は難しいけれども。

1秒と言う長さも、太陽が昇り沈む(=地球が1回転する)間隔を1日とし、それを24等分して1時間とし、それを3600等分した長さを「1秒」と定義している「概念」であり、すべては人間界での話であって、自然界に「1秒」など実在しない。人間が測るからこその「1秒」である。

量子力学では、一定以上の細かさで速度と位置を同時に決定できないことが分かっている。また相対性理論では、光速で移動すると時計が止まって見える=時間が進まなくなる、などが言われており、これが時間の実在に繋がるとの考えもあるが、私には説得的でない。量子力学は極微の世界の話、光速移動も人間には多分実現不可能であり、日常世界で時間の実在を示して貰わないと納得できないからである。

ちょうど、幽霊や「超能力」やUFOが、衆人環視の下では現れず、誰かが「見た〜」と言っているのに近い印象を持つのである。科学は、再現性を重視する。誰がやっても同じ結果になるのでなければ、信用されない。