前回の続き

死は経験することができないから、常に「他人事」だ。死にかけてこの世に戻ってきた人も少数はいるが、完全に「あの世」に行って戻ってきた人はいない。つまり誰にとっても、死は初体験だから、予め練習することはできない。いつでも「ぶっつけ本番」で、しかも実際に何時やって来るか分からないことが多いのが難点だ。

私自身死についてどう考えているかと言えば、仏教思想の唯識的な考え方が一番ピッタリくる。つまり、五感を通して私の意識に映った世界だけが「私の世界」であり、私の意識がなくなるとき、全世界は消え去る。ただ、それだけ。仏教思想には共感を持っているが、あの世で阿弥陀如来が迎えてくれるとは思っていないし、神があの世へ召して下さるとも考えない。

道元が次のように言うとおりだ(正法眼蔵 第一現成公案の第2文)。

万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。

以前に一度だけ、全身麻酔の手術を受けた時、麻酔で眠りに落ちる寸前に、死ぬときってこんな感じなのかと思ったことを覚えている。そう思う間もなく、意識がなくなってしまったのだが。大体、死ぬときは力なく横たわって、意識が無くなって行くのだろう。「弁慶の立ち往生」みたいな派手な死に方は稀だ。

脳死でも心臓死でも、血流・呼吸が止まり意識が完全に消え去ってしまえば、手足や臓器の部分が生きていても、人間としては「亡くなった」と判断されるのが妥当だと思う。だから私は脳死段階での臓器摘出に反対しない。ただし、脳死の判定には十二分の配慮を望む。私の臓器で死後何が使えるのかは不明だが、提供カードには「使えるものは何でも」と書いてある。

死んだ後は、焼かれて骨になっても痛くも痒くもないのだから、怖いものは何もないはずだ。持って行けるものは何一つないし、死後のことを事細かく指示する趣味は私にはない。死後のことは生き残った者たちに全てを任す。残された者たちが幾らかでも困らないように、あれこれ覚書や暗証番号一覧などを残しておこうとは思っているが、それらは完全に便宜的な措置である。いわゆる「終活」とは少し違う。

私が「終活」をしない理由は、生きて行くことは常に「途上」であり、死は常にその断絶としてしか現れないと感じているからだ。「終活」を終えたら、生きることはオシマイなのか?

仏教思想はこの世の無常を語り空の世界を論じるが、決してニヒリズムには陥らない。また単なる現状追認にも陥らない。そうではなく、限られた寿命の中で精一杯生命を輝かせ利他の世界に生きることを説く。この点が、現代においても仏教思想が魅力的である所以だと思う。