やがて来るものとのつき合い方

70歳近くともなれば、自分の寿命も残り少ないことを、現実の事態として受け止めざるを得なくなる。怖がっても抗っても、来るものは来る。逃げようはない。一緒に産まれてきた双子の片割れは、15年も前に死んでしまった。彼は死ぬ間際、何を考えたんだろう・・?父や母は?

安倍元首相の一周忌で、夫人は「夫の死の意味を何とか考えようとしている」と言っていたけれど、私の考えでは、死に「意味」など無いと思う。生きていることには意味があるが、死には何の意味もない。単に、そこにあった生命が消えてなくなるだけだから。

親兄弟や親族など、数多くの死に立ち会ってきたが、そのたびに痛感してきたのは、死者に対して生者が全く無力であることだ。どんなに悲しく、戻ってきて欲しくても、死者は決して戻らない。いつもいつも、そのどうしようもない現実に、打ちのめされた。死は、生き残った者たちにとって、しばしば残酷なものなのだ。

死に「意味」を与えようとすると、それは何らかの「価値」を与えることに繋がりやすい。典型的な例は、戦争中の特攻隊で亡くなった死者を「お国のために命を捧げることは崇高な行為」などと賞賛すること。この種の「死の意味づけ」に、私は絶対に賛成しない。徹底的に反抗する。多くの場合、この種の「意味づけ」は自発的なものではなく、外から建前的に強制されたものだからだ。私は、特攻で命を散らした若者たちを、心底から惜しむ。なんて勿体ないことを・・。本当は、命と引き換えにするものなど、何一つなかったのに。

戦争・戦闘で命を失うことほど無意味なことはない。「正義のための戦争」なんて、ないと思う。その「正義」とやらが、ひどく怪しげなものであることに気付かないのは、愚鈍だ。だから私は、例えばウクライナ戦争に対しては「まず戦いを止めろ、話し合え」と言いたい。武器援助などして、何になる。犠牲者が増えるだけじゃないか。命は尊い。まずは、命を大事にしろ!「非人道的兵器」だと?何だよそれ。それじゃ「人道的兵器」って、あるのかね?人を殺す兵器が「人道的」って、そもそもあり得ない話だよな?

逆に、生きていることは、それ自体に意味があると思う。この頃、歳のせいか、小さな赤ちゃんや幼子を見るとつい顔がほころび、撫でたり抱いてあげたくなる。孫が生まれてから、特にそうだ。幼子たちよ、どうか健やかに育って、よき人生を送っておくれ・・。

そのように祈る対象としての生命に、差異も区別もないし、あってはならない。ましてや「生産性」なんぞで差別など、もっての外。肌の色や国籍、性別や性自認で区別・差別することにも、私は反対する。今の日本は、多様性の受け入れにまだまだ難点が多いと思う。鎖国時代の精神性がまだ強く残っていると感じるからだ。国会の議論を見ていれば一目瞭然だ。視野が狭く考えも浅い。世界の大勢を見ろ。日本は、種々の分野で周回遅れになっている現実がある。

自分の死については語り損ねた。またの機会に。