話すことを試験する・・?

国学力テストで、英語の「話す」で0点が6割、正答率が12%台とか出ていた。問題が難しいと言う声もあるようだが、それ以前に「話す」ことは試験に適するのか?と言う重要問題がある。断っておくが、「英語だから問題」なのではない。何語でも、言語である限り同じだ。

別に英語に限らないが、語学において、読む・聞く=情報の受け取り=入力に比べて、話す・書く=情報の発信=出力に関しては、客観的な評価が難しいと言う問題がある。つまり、読む・聞くに関しては、正しく遂行できているかどうかを、かなり正確かつ客観的に評価できる。しかし、書く・話すに関しては、実際にはそれがかなり難しい。

書く・話す、つまり出力する前に、その内容を頭の中でまとめないといけないが、まずはこの段階が難しい。これを書いている私自身、書いては直しながら考えをまとめているのだ。話すとなると、ゆっくり考えている暇は無く、瞬間的に応答しなければならないから、反射神経がものを言うだろう。じっくり考える子や口下手な子は、その段階で不利になる。

次に、考えたことを文字や音声に変換する段階がある。これにも技量の差は大きく出る。考えを表す語彙力や表現力は千差万別だし、書く場合には文章力・漢字力、話す場合には発声や滑舌などの技術的な問題もある。ここで躓いても、良い点は貰えない。

そして最後に、話す・書くことで出力された「内容」そのものへの評価。模範解答はあるだろうが、それに一致するほど良い点なのか?違う答えが出てきたとき、どの程度の「違い」を許すのか、そもそも、誰かが話し・書いた内容の「良し悪し」を、誰がどうやって「評価する」というのか?と言う、根本的な問題がある。「模範解答」が常にベストとは限るまい。

要するに「学力」を測るための指標として、話す・書くを対象としてはならないのではないか?と言うのが、本質的な疑問なのだ。東京都知事は「話すことは大事だから」学力テストに入れるべきだと答えたそうだが、そんな粗雑な考え方では困る。むろん、話すことは大事だが、それが学力テストの対象として相応しいかどうかは、別問題だからだ。

またここには、生成AIを用いた作文の問題も関係する。読書感想文に生成AIを使うことは禁止になるそうだが、そんな禁止に効果は全く望めない。下書きを生成AIにやってもらって、ちょこちょこと文章や言葉を変えて「私が書いた」と言えばオシマイだから。問題はそこにはない。人間は書くことで考えを育てて行くものなのに、その過程を一切省くことで、何も考えない人間が増えてしまうのではないか?こそが問題だからだ。

それ以前に、日常的にスマホの小さい画面やツイッターの250文字以内とかの短い文章しか読み書きしない人間が、まともな考察を書いた一定分量以上の文章を読みこなせるのか?と言う問題もあるのだが。

これらは、小学校から大学まで、すべての教育機関に勤務する教師なら全員、自分の問題として真剣に考えるべき事項ではないだろうか?なぜなら、言葉の教育こそが、すべての教育の基礎になっているからだ。人間は、言葉で考える存在なので。