亡き兄のこと

急死した兄の葬儀には400人もの会葬者が訪れ、会場の教会には入りきらず外まで長い行列が続いた。一般人の葬儀としては、異例の大人数だったと思う。その多くは、彼の診た患者とその家族で、小児外科医として如何に彼が頼りにされ慕われていたかを示すものだった。

一方で、知人友人らの弔辞には、私は心を動かされなかった。大体が彼の外形的な業績紹介や儀礼的な賞賛に終始し、彼が本当は何を求め何に苦しんでいたかに触れた言葉がなかったからだ。弔辞の最後、家庭内暴力その他で親に迷惑をかけ通しだった彼の長男がボソボソと語った言葉が、不器用ながら真情を衝いたものに思えた。

なぜそう思うかと言えば、兄とは学生時代から長い手紙をやり取りし、中年以後は電子メールが使えるようになったので日常的に連絡を取り合い、お互いの考えや感じ方をほぼ理解し合えていたからだった。双子だったので共通する部分は多かったが、宗教への対し方や女性の好みは違っていた(配偶者のタイプが全然違っていたので分かる)。

その意味では、彼を真に理解し肝胆相照らす親友というべき人間は、居なかった。双子の弟だけが、他人よりは彼を深く理解していただろう。事情は私自身にとっても同じだ。私を最も良く理解していた人間は、すでに亡い。私が死んだ後、弔辞を読む人間を、私は思いつかない。

彼はキリスト教に帰依し、洗礼も受けていた。それで葬儀も教会で行われたわけだが、私はキリスト教に限らず一神教というものを信用しなかったので、無論入信しなかった。むしろ、両親が早くに亡くなった後、仏教思想に興味を持ち、あれこれ勉強するようになっていた。彼は仏教にはほとんど関心を示さなかった。

彼がキリスト教に傾倒した理由の一つは、おそらく彼の仕事と関係がある。医師と言う職業柄、人の生死と関わることが多かったからだ。本職の小児外科の傍ら、応援で行う手術の大半はガンの摘出だったようだが、開けてみたら手の施しようナシと言う症例が数多かったらしい。そのたびに「神よ、哀れみ給え・・」と祈るしかなかったのだと彼は述べていた。

ローマのサンピエトロにあるピエタ像の、特にマリア像を好んでいたので、彼の墓にはそのマリア像が刻んである。学生時代に二人で欧州各地を旅行した際にローマにも行き、サンピエトロでピエタの実物を見た時の感動を、彼は生涯抱き続けたようだ。マリア像写真を額縁に入れて、常に部屋に飾っていた。

音楽の好みは共通していた。バッハの諸作品と、ベートーヴェンの特に晩年のピアノソナタ(第28番〜32番)や弦楽四重奏曲(第12番〜16番)を好んで聴いた。特に、大フーガ変ロ長調が好きで、楽譜まで買ってきて見ながら聞いていた。再生機器にも凝って、スピーカーには英国タンノイ製のデカいのを入手して、我々家族を驚かせたりもした。さすがに良い響きだった。

これらの音楽作品については語るべきことが多いので、別の機会に詳しく語ることにする。私の人生にとっても、バッハとベートーヴェンの作品が持つ意味は大きいからである。