自己紹介 8

幼稚園から高校まで一緒だった双子が、別の道を歩むようになったのは大学入学時からである。実は、我々は大学入試1年目は二人とも落ちて、自宅浪人をしていた。田舎の予備校に行くより、通信教育を頼りに自宅で勉強する方が良いとの判断だったが、二人だったから出来た面も後から考えると大きい。実際、一人きりで自宅浪人して志望校合格できたかどうか・・?

浪人後の入試で、二人の第一志望は京大工学部(学科は異なる)、第二志望は秋田大医学部だった。これには両親との確執があり、もう冒険はしてほしくなくて、親はもっと手堅い志望校を望んだが、子供は志望校を諦めきれず、結局は妥協案としてこの選択となった。

結果、京大には私だけが受かり兄は落ちた。失意のまま受けた秋大医学部だったが、何とこちらには合格した。10何倍の競争率で、本人も「この1列で合格は一人くらいか・・」と思いながら受験したそうだ。私は元々医学部志望ではなかったので、受けなかった。二人にとっても両親にとっても、最良の結果だった。

医学部に入ってから、彼は見違えるように生き生きと勉強し、結局は小児外科医となった。子供が好きだったので小児科、ブラックジャックのような外科医を志したので外科を選んだので、必然だろう。それまで常に彼に覆い被さっていた弟への劣等感が、ほぼ完全に払拭できたのだと思う。高校から始めていたバドミントンも腕を上げ、東医体(東日本の医科大学の体育大会)で1年時から上位を占め、4年・5年時にはシングルスで連覇した。あの頃は強かった。

一方、大学入学後の私はパッとせず、失恋したりバドの腕も上がらず中途退部したり、将来何をやりたいのかも定まらずに精神的放浪の日々を送っていたので、帰省すると彼の楽しそうな生き生きした姿が羨ましかった。高校までとは、正反対の状況になった。

しかし好事魔多しと言うか、兄は54歳で急死してしまう。急性心筋梗塞だった。今の私と同様の狭心症になり、心カテ治療を受けて冠動脈にステント(血管に入れる管)を入れたのだが、そこが再狭窄したのだった。深夜に自宅で倒れ誰も気がつかなかったので、救命措置も出来なかった。不審死ということで司法解剖され、心臓の病変が分かった。

遠因としては、医者の不養生というか、激務による不規則な生活や寝不足などがあったと思うが、医者のくせに自分のステントの状態に気を配らなかったのかと、私には腹立たしい。

それにつけても思い出すのは、57歳の若さでガンで亡くなった母が、死ぬ少し前に、看病していた私に「○(兄のこと)は、あんな生活ではきっと早死にする。お前は、その分長生きするように」と言い残していたことだ。母の予言が当たるのは20年以上も後のことで、聞いた当時は母の言葉が信じられなかったが、親というものはそこまで考えているのかと、心底驚いたことだけは記憶に残っている。母よりは大分長く生きたが、その息子は母の境地には全然達していない事実を思い知らされるのみだ。