柄谷行人の読書感想 続き

昨23年の透析読書で収穫だったのは、思想家・柄谷行人に出会ったことだろう。最初に読んだのは、作家・中上健二との対談集で、これがなかなか面白く、興味を惹かれたのだった。実は、私の中での柄谷像は、小林秀雄吉本隆明の亜流という位置づけで、この両者をあまり高く評価していない私は、柄谷も似たような存在だと思い込んでいた。しかし、それは大誤解だった。

小林秀雄吉本隆明に関して、世間の大方の見立ては「過大評価」だと私は思っている。小林は多方面に渡って種々の興味深い評論を書き、その点は私も評価する。勘の鋭い人だった。しかし「無常といふ事」などを書いておきながら、仏教思想に関しては大きな誤解をしていたようだ。何しろ、「無常=空」の思想とヘラクレイトスの「万物は流転する」を同じだと考えたのだから。実際は、両者は正反対の思想なのに。また晩年の本居宣長に関する著作も、吉川幸次郎の同名の本と比べると、明晰さの点で見劣りすると思う。吉本隆明も実はこれらの点に関して私と似た感想を書いているが、彼の本は読んでも分からない文章が多すぎる。親鸞に関する本をたくさん書いているのに、主著「教行信証」を全く評価せず、専ら弟子の著作である「歎異抄」ばかり参照している点にも、違和感しかなかった。結局、彼は漢文ばかりの「教行信証」を読みこなせなかったのでは?としか思えなかった。国家についての「共同幻想論」にも、何ら魅力を感じなかった(後に柄谷も「共同幻想論」を否定している)。

それやこれやで、柄谷行人がこの両者の亜流であるなら読む価値はないと思っていたのだ。確かに、初期の柄谷はこの両者から強い影響を受けている。本人もそれを認めている。しかし、その後の柄谷は、劇的とも言える変貌を遂げる。私は彼の本を読みながら、それらを少しずつ追体験していったことになる。

中上対談集の後に読んだのは「意味という病」で、これが難解ながら大いに思考を刺激された。特に、初めの方に置かれた「マクベス論」には不思議な魅力を感じた。もっとも、あとがきを読んで、この作品が「連合赤軍事件」を意識して書かれたものだったと言う事実には、全くの予想外で愕然としたのだったが。この本では夏目漱石森鷗外についての評論が、とても面白かった。彼の「文学」に対するセンスを感じた。

次に読んだ岩波新書「世界共和国へ」は興味深い本で、彼の問題意識の有り様に大きな共感を覚えた。この世界を、生産様式からではなく「交換様式」から見ると言う思考方法が新鮮だった。そして、なぜそれらを考えたかと言えば、現代の資本主義=新自由主義を克服する道筋を見出すためであることに気づいたからである。

以前にも書いたが、現代社会の大きな問題は、現代社会に蔓延る「カネ第一主義」=新自由主義である。社会が、ほんの僅かな富裕層と大多数の貧民層に二極分解し、富裕層が何もかも独占してしまった。これは、G7など欧米(先進)国に共通する現象であるが、人類はまだ、これを克服する道筋を見出していない、と言うのが私の認識だった。本来なら、左翼系知識人が率先して「新自由主義克服への道」を議論しなければならないのに、日本で目につく左翼系知識人からは、そのような言説が聞かれなかった。少なくとも私の目には止まらなかった。

その点で、この岩波新書は非常に新鮮だった。ただし、小冊子であることを割り引いても、どうやってその「世界共和国」に到達するのか、についての記述が少なすぎて、物足りなさを感じた。また、哲学や経済学についての自らの知識・理解のなさを改めて意識した。彼自身も、思考を根本からやり直す必要を感じたようで、その最初が「マルクス その可能性の中心」だったと思う。この本からは学ぶものが多かった。カール・マルクスの思考の真髄に触れた気がした。

今の世の中で、マルクスを先入観なしに真剣に読み込んだ人間は少ないはずだ。マルクス主義者はマルクス信仰を捨てていないと思うが、柄谷行人は「マルクスの思想」と「マルクス主義」を明確に区別した。この点は重要だ。なぜなら、旧ソ連などのマルクスレーニン主義は、マルクス本人が考えた思想ではないからだ。

旧ソ連の崩壊と東西冷戦の終結で、資本主義の共産主義への勝利が決定的になり、これで「歴史は終わった」という考えが、一世を風靡した。今でもそう思っている人多いだろう。これはある面では正しく、しかし別の面では間違えている。柄谷はそう主張する。ただし、マルクスに関するこの本は、一種の序説であって本格的な展開に至っていない。実際、本人もそう書いている。

そこで、考えをさらに深めるために、様々な哲学的な課題に対して、根底的に考える試みを進めたのが「探求Ⅰ・Ⅱ」である。この2冊は難解で、私は読み通すのにとても苦労した(「探求Ⅱ」については、11月に書いた)。

これらの本に比べれば「世界史の構造」は、ずっと読みやすい。この本で、柄谷の考え方が具体的に理解できるようになる。500頁以上の大作だが、読んでいて実にワクワクした。この本の続編とも言える「帝国の構造」と併せて2冊読めば、彼の世界・日本史観がほぼ明らかになる。私の感覚では、日本や世界の過去から現在までの歩みが、一望の下に見渡せるような心地良さを感じる。この2冊は、今後、日本と世界の思想界に大きな影響を与え続けるはずだと、私は確信している。柄谷の思想は、英語圏その他でも広く受け入れられているのだから。

さらに、その後に出た「世界史の構造」を読む を読めば、理解はさらに深まる。この本は2部構成で、第1部:震災後に読む「世界史の構造」は非常に読みやすく、絶好の手がかりになる。第2部は種々の論客たちとの対談集で、対談相手によって中身の濃淡がある。何を言っているか良く分からない発言には、柄谷は正直に「何言ってるかよく分かりませんが」と言っている。

これらを読んで、私は漸く、新自由主義を乗り越えるための展望の「手がかり」を掴んだような気がする。今の見通しでは、井筒俊彦の東洋哲学と、宇沢弘文の経済学(特に社会的共通資本の論理)に柄谷行人の思想を加えたら、人類の未来にある程度の見通しが立つのではないかと思う。これに何か加えるとすれば、環境・エネルギーの観点から、社会の持続可能性を維持するための条件を整理することではないかと考える。この方面にならば、私も何らかの貢献をなし得るかと思う。