暮れに聴いた音楽など

年の暮れに聴く西洋古典音楽は、世間では「歓喜の歌」か「メサイア」と相場が決まっているが、私はバッハの「ロ短調ミサ曲」を聴く。マタイ受難曲では少し長すぎるが、この曲なら何とか聴き通せる。どちらも、最初から最後まで最高の音楽がギッシリ詰まった、名曲中の名曲なのだが「マタイ」の方は、聴くにも心の準備というか、一種の覚悟が要るほどの曲なのだ。あだやおろそかには聴けない。私はキリスト教など信じてはいないが、この音楽劇には、聴く人間の心を底の底から揺さぶるような力がある。同じバッハの傑作でも、この曲よりは、ロ短調ミサ曲の方がずっと親しみやすい。

この曲、演奏は、昔はカール・リヒターかエリオット・ガーディナー指揮の盤で聴いていたが、最近はクレンペラー指揮で聴く。リヒター盤は剛毅な昔気質の感じで力強く、ガーディナーは少し柔らかくやや快速調で現代的な感じ。クレンペラーは、やや昔風だが古くさい感じは全くしない。結局、私はこの盤を断然好む。

冒頭の「キリエ」、リヒター盤では少し叫びすぎるような感じだが、クレンペラー盤では決然とした気高いキリエが聴かれる。この出だしから、一気に引き込まれてしまう。このロ短調ミサ曲には「キリエ」が3曲もあって、3曲目終わりごろには少し息切れしそうになるが、次の「グロリア」が目の覚めるような名曲続きで、一気にテンションが上がる。次の「クレド」以下はやや渋いが、何とも味わい深い音楽の連続だ。その後に「サンクトゥス」「ホザンナ」と、言いようもない名曲が続き、終曲のDona nobis pacem「われに平安を与えたまえ」で終わる。この曲は「グロリア」の第4曲Gratias agium tibiと同曲。何度聴いても涙が出そうになるほどの傑作だ。

クレンペラー指揮でこの曲を聴くたびに、こんな音楽を書いた人がいて、このように演奏してくれた人がいたことに、何度でも感謝したくなる。このような音楽や芸術がある限り、人生は生きるに値する。

クレンペラーは、私としては中年以降に聴くようになった指揮者なので、生前のことは知らない。亡くなったのは1973年で、1970年に英国で最後のベートーヴェン交響曲全曲演奏をやって、そのBRが残っているが、その当時の演奏はすでに相当の老いぼれぶりを示している。70年だと私は高1だから、ビートルズやS&Gにハマっていた頃なので、クレンペラーなど知るよしもなかった。

彼の演奏を聴くようになったのは比較的最近で、箱物セットで安く入手できるようになってからだ。中でも私は彼の1960年代の演奏が好きだ。バッハ、モーツアルトベートーヴェンブラームスシューマンハイドンなどに名演を残した。いずれも私の愛聴盤である。

シューマンの4曲ずつある交響曲を、5人の指揮者で聞き比べしたことがある。私の中では、クレンペラージョージ・セルの盤が、演奏スタイルは対照的ながら大いに心惹かれ、バーンスタインクーベリックがその次、カラヤンがビリだった。こうして聞き比べると、カラヤンの演奏は全体的にやや軽く、深みに欠ける。シューマン4番の終楽章など、カラヤン盤では何だか騒々しい音楽に聞こえてしまう。クレンペラーとセルの盤では、スタイルは全然違うのに、それぞれシューマンの良さがしっかり出ているのだが。

その他の曲も加えて、私が真に偉いと思う指揮者は、クレンペラージョージ・セル、それにムラヴィンスキーの3人だ。この3人の演奏からは、指揮芸術というものの奥深さを強く感じるのだ。ムラヴィンスキーは客演をほぼしなかったが、クレンペラージョージ・セルは種々のオケを演奏していて、しかしどれを聴いても「彼」の指揮だとはっきり分かる個性がある。指揮者は何一つ音を立てず、身振りだけでオケを操るだけなのに、出てくる音楽の「質」は偉く違ってしまうのだ。

例えば、ショスタコーヴィチ交響曲第5番をあれこれ聞き比べると、ムラヴィンスキーの演奏が際立って素晴らしい。冒頭の和音の緊張感からして違う。比べるのは気の毒かも知れないが、佐渡裕がベルリン・フィルにデビューしたときの演奏がこの曲だった。しかし最初から最後まで、曲の把握の仕方が全然違うのは明らかだった。ムラヴィンスキーは椅子にかけたまま、指揮棒も使わず両手だけで指揮をする。佐渡はお師匠のバーンスタイン張りに指揮台上で大暴れ、汗をかきまくっての大熱演だったが、オケはそれほど乗ってこない感じ。片やムラヴィンスキー配下のレニングラード・フィルは、怖~い顔の指揮者の下、一糸乱れず、凄まじい迫力で演奏する。曲が終わって楽譜をたたむと、ムラヴィンスキーは、オケにはほんの少しニヤッと笑って見せてからクルリと聴衆側に振り向き、仏頂面のまま会釈する様子が映像に出てくる。この辺、何とも味わい深い。

ブラームスの4番も、この3人がベスト3だと思う。ただしジョージ・セルのはスタジオ録音のではなくて、亡くなる前年のライブ録音の方だ。第2番のライブも名演だが、この4番はマジで凄い。第4番終楽章の最後は、多くの指揮者が、どこか走り出してしまうような演奏になるのだが、ジョージ・セルのは違う。最後の最後までギリギリ押し殺したテンポで進む。その迫力は鳥肌ものだ。曲の終わり際、聴衆が我慢できずに拍手を始めてしまうのも、分かる気がする。あんなライブを聞かされたら、一生忘れることはあるまい。私も、オイゲン・ヨッフムバンベルク交響楽団を指揮してブルックナーの第8番を演奏した夜のことを、一生忘れないのと同じように。

大好きなブラームス交響曲全集は、ずいぶん聴いた。上記ベスト3人の他に、ベームカラヤンバーンスタインジュリーニショルティヨッフム、ギュンター・ヴァント、アッバード、ラトル、ケンペ、ケルテス、チェリビダッケフルトヴェングラーアーノンクールなど。それぞれ、個性があって面白い。良い古典音楽は聞き飽きしない。