生きる意味と哲学

以前に、生きる意味に関して、次のように書いた。

私の考えでは、生きていることそのこと自体に価値があるのであって、何かの目的とか達成とか、言わば「外からの何らかの価値づけ」で左右されるものではない。産まれたばかりのスヤスヤ眠る赤子から、末期ガンで残り少ない日々を生きる患者まで、生きていることの意味=価値は全て平等で、差異はない。生きていること自体が、貴い。そこに、何らかの「目的」が要るんだろうか?全然、要らないだろうと私は思う。

確かにこう書いたし、一般論としては正しいと思うのだが、実は自分自身に対しては、これと少し矛盾した考えを抱いている。なぜなら、自分が生きている意味は、何かを感じたり考えたり表現することにあるので、それを全て封じられた、例えば植物人間状態になってまで生きている意味はあるのか?と言う思いがあるからだ。だから、配偶者にも「植物状態になったら延命措置は不要」と言ってある。

つまり、私の意識が無くなった時、私の世界は消え失せる。その後は何も無い。まさに「まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく、滅なし。」の境地だ。そこには「意味」などの入る余地は皆無で、そこに横たわる肉体は単なる物質であり抜け殻でしかない。だから自分がそうなったら、迷い無く生命維持装置は切ってくれ、と言ってあるわけだ。

このような思考は、一般に「哲学的」と言われるが、木田元「反哲学入門」によれば、そもそも「哲学」は西洋に特異的な思惟・思考法であって、どの世界にも通用する普遍的な学問ではないそうだ。その哲学の根本問題は、「存在とはなにか」を問うことで、古代ギリシャソクラテスプラトンから中世キリスト教神学、近代のカント・ヘーゲルらを経て、ニーチェ以後、20世紀のハイデッガーの「存在と時間」まで、確かにそのようだ。

同じ著者の「現代の哲学」では、人間存在の基礎構造、人間の身体の問題(種々の感覚や言語、性的存在など)、言語と社会、構造主義マルクスと資本主義の問題などが取り上げられているが、「愛とは何か?」「お金は人を幸せにするか?」「何のために生きているか?」などは哲学の対象とされていない。「生きる意味」も。

初期仏教で興味深いのは、形而上学的な問題に対して、判断を示さず沈黙を守った点である。仏陀は、次のような質問には答えなかった。すなわち、世界が永遠であるか否か、有限であるか否か、生命と身体は同一のものであるか否か、人は死後存在するか否かという問題について、ブッダは何も語らなかった。世界が永遠であろうとなかろうと、有限であろうとなかろうと、生命と身体が同一であろうとなかろうと、人が死後存在しようとしまいと、人は生まれ、老い、死に、嘆き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩む。ブッダは、現実にそれらの苦しみを止滅することを第一義の目的としたからだ。

古代中国の孔子も、不可知なものには距離をおいた。子は怪・力・乱・神を語らず。幽霊や妖怪変化など怪異なもの、超人的な力、混乱や無秩序、鬼神などには言及しなかった。

こうして見ると、考えても果てしのない問題には適度な距離をおいて、やや突き放した態度で臨むのが賢明であるらしい。