時間論の続き

前に時間について書いたが、あの考察の元は「時間の非実在性」(マクタガード著、永井均 訳と注釈、論評。講談社学術文庫)と「時間は実在するか」(入不二基義著、講談社現代新書)の2冊の本である。実は、両者ともに私を十分には納得させてくれず、もっと現実的というか物理学的な考察も加えて、ああ言う議論になった。

他にも「時間」に関する何冊かの本を読んだが、何か抽象的過ぎて私にはピンとこなかった。その中で上記2冊が私には響いたのだ。背景的知識として、歴代の西洋哲学者の多くが時間の実在性を否定していることを知り、驚いた。スピノザ、カント、ヘーゲルショーペンハウアーなどである。東洋の哲学・宗教では、時間の非実在は当たり前のように扱われていた。

さて、マクタガードの議論は、何を言っているのだろうか。彼によれば、出来事を時間の上に位置づける仕方は2種類ある。まず、過去→現在→未来へと連なる位置の系列をA系列と呼ぶ。一方、より前からより後へと連なる系列(前後の順番だけで決まる系列)をB系列と呼ぶ。私の理解では、図式的に考えれば、B系列はA系列のどこに置いても成り立つので、前者は後者の部分集合に当たる。そのためか、マクタガードは「時間にとってより重要なのはA系列だ」とする(哲学者によっては異論もあるらしい)。そして、あれこれ複雑な議論の末に、彼は「時間にとってA系列が不可欠なら、時間は存在しない」と主張する。なぜなら、A系列は、内部矛盾をはらんでいるからだと。

この議論は、容易に理解しがたい。訳者の永井氏が非常に詳しい注解と論評を書いていて、それはそれで有用だ。彼は言っている、「マクタガードの問題提起の根底にあるのは、世界のあり方そのものに潜む本質的な矛盾だ」そのため「このような問題設定には格別の理解しがたさがある」とも。永井氏の注釈は、私のマクタガード理解に大いに役立ったので感謝しているが、さりとて問題が解決されたわけではなかった。「時間とは謎である」と言われているような気がした。マクタガード自身も、そう言っているように思える。

入不二氏の本は、このマクタガード議論を徹底的に詳細に分析した力作で、途中までは非常に興味深く読んだのだが、最後の第5章で示された「もう一つ別の時間論」になると全然分からなくなった。「とりあえず性」という概念が出てくるが、これが良く分からない。私の理解力では、この用語・概念は、どうにも解釈できるので、単なるゴマカシとしか思えない。その後も「関係としての時間」とか「時間的な推移は時制を持たない」とかの意味解読困難な記述が続く。そして、最後まで読んでも、問題は解決されない。「時間は実在するとしても、それは(1)〜(5)と言う実在の意味(本文には(1)〜(5)が書かれているが、ここでは省略)をすり抜けるあり方において、である。」なんて書かれても、何だか「はぐらかされた」ようにしか感じられない。入不二氏の本には続編もあるそうだから、機会を見て読んでみたい。

マクタガードの議論に戻るが、私から見ると「出来事を時間の上に位置づける」と考えること自体、すでに時間は一方向に流れていることを前提としているように思える。このように認識する我々の意識こそが問題なのではないか?

そうするとやはり、問題は、我々が「世界」をどのように認識しているか、に帰着するとしか考えられない。私の理解では、永井氏の言う「世界のあり方そのものに潜む本質的矛盾」も、この延長上にある。即物的な言い方だが、我々は「世界」を客観的に理解し得るし実際にそうできていると思い込んでいるが、実はそれは我々の意識上に投影された「影」を見ているだけなのでは?という疑問だ。「影」しか見えないのだから「客観性など存在しない」と言えば簡単そうだが、それだけでは、誰もが納得する・理解することの基礎が、どこにもなくなってしまう。実際には、人間が認識した科学法則の通りに物は運動し、天体現象も予言通りに起こる(当てずっぽうではなく、計算通りに、正確に!)。この「客観性」「正確性」の基盤は、どこにあるのか・・?

この件は、プラトンがなぜ「イデア」を考えたかや、主著「国家」で描いた有名な「洞窟の比喩」とも関連し、もちろん唯識の認識論とも密接に繋がる(ここで詳しくは書かない)。

今のところ、私の中で最もスッキリと受け入れられるのは唯識的な認識論で、これなら何らの矛盾も感じない。連続して流れる時間などは存在せず、刹那に生じては消える意識の中に万物が存在し、すべて「現在」の中で変化・流転するのが「世界の実相」であると。

この内容を最も端的に表現したのが、道元のこの有名な一節だと思う。

諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。