柄谷行人を読む

柄谷行人の「探求Ⅱ」を2週間以上かけてやっと読み終えた。前半は抽象的で難解な議論が続くので読み進むのに苦労した。特に第1部第5章「関係の偶然性」は、ほとんど理解できなかった。まず用語が難しい。「関係命題」と「主述命題」がよく分からないし「関係は実体に還元できない」という原理も理解できていない。この本では「還元」という言葉が頻出するのだが、理科系人間の私には化学に出てくる「酸化還元」の「還元」しか浮かばないのだ。

その前に書かれている「述語は主語にふくまれる」という原理は、一般には成り立たないと思う。「○○は××する、××である」タイプの記述は述語が主語に含まれるが、例えば「彼は○○と評価されている」とか「推測される」となると、外部の目が入るので述語の全てが主語に含まれるとは言えない(この理解で良いのか自信はないが)。なお、この「外部」「他者」の概念は、この本の中心テーマなのだが。

その他にも「関係的性格」と「関係的属性」の違いも、私には良く分かっていない。そのためもあって「関係の外面性は関係の偶然性に置き換えられるものでなければならない。」も私には理解困難だ。故に「外部性」(関係の外面性)を内面化する と言うのも理解しにくい。

「売り」と「買い」が非対称で「命がけの飛躍」(関係の偶然性)を必要とする、と言うのは分かる。しかし「命がけの飛躍」を「関係の偶然性」と呼ぶ理解の仕方は、私には困難だ。そして最終的に「偶然性とは、いわば関係の外面性にほかならない」という命題に結実するのだが、これも当然ながら理解困難である。

また第2部「超越論的動機をめぐって」も難関だったが、第1部と比べればまだ理解できるところは多かった。ここでは、デカルトスピノザが主に議論されていて、私はスピノザがほぼ全然視野になかったので大いに勉強になった。それは、私が近代西洋哲学の流れを、デカルトの大陸合理論とベーコンらのイギリス経験論をカントが総合化し、それをヘーゲル弁証法的に止揚し、フォイエルバッハが換骨奪胎した理論をマルクスが応用した・・と理解していて、これは主にドイツ系哲学の話であり、スピノザラブレーモンテーニュらのフランス系思想家について知識がなかったからである。モンテーニュについては、堀田善衛の名評伝を読んで彼の「エセー」を読むようになったが、スピノザは全く視野の外だった。スピノザがこんなに鋭い思想家だったとは初めて知った。昔の人は、実に良く考えているものだ。

一方この第2部では、ハイデッガー、ウイットゲンシュタイン、ライプニッツニーチェマルクス、ブルーノ、フロイトフッサールなどの他に、デリダラカン、ドゥールーズ、フーコーレヴィ・ストロースなど現代思想家にも言及しているので大いに勉強になった。柄谷が如何にたくさん読み考えてきたかが良く分かる(彼は日本文学にも詳しい)。

それでも私には、「超越的」と「超越論的」の違いさえも十分に理解していない自覚がある。だから「超越を否定しうるのは「超越論的」姿勢であり、主体(個)を否定しうるのは単独性なのだ。」という文章も、後半は何となく分かるが前半は分かっていない。なお、単独性とは、私の理解では「唯一性」と言っても良い。「唯一のこれ」という意味なので。

第3部「世界宗教をめぐって」は、前の2部から見るとかなり読みやすい。具体的な例が多いせいだろう。ここで初めて、柄谷の問題意識ー他者とのコミュニケーション、交通、言語、貨幣の謎ーなどが具体的に明らかになる。

著者はあとがきで「私は、もっと具体的な現実の状況をたえず念頭においてきた。しかし、それに対処するためには、問いをより基礎的なものにしていかねばならない。」と書いており、私はこの記述に全面的に賛成する。彼は物事を根本から考えようと苦闘しているのだ。

そして彼は「探求Ⅰ」のあとがきで「書くことが生きることであるということを、私ははじめて実感している。」と書き、「探求Ⅱ」では「これらを書いている時だけは「考えている」という実感がある。」と書いている。これらの言葉にも、私は全面的な共感を覚える。そう、私にとっても「書くことは生きること」なのだ。そして書くためには読み、考えなければならない。

私は最近柄谷の本をこれで6冊読んだが、まだまだ足りない思いだ。何故なら、これまで読んだ本は彼の「中間報告」に過ぎないような気がするので。彼が今、到達している境地にまで、少なくともこれまで読んだ著作は追いついていない。