思索の源泉としての音楽

仕事場でLPレコードが聴けるようになり、久し振りに森有正「思索の源泉としての音楽」をかけてみた。学生時代に聴いた感動が、鮮やかに甦る。

最初に、コラール前奏曲「人よ、汝の大いなる罪を嘆け」BWV622が弾かれる。いつ聴いても心打たれる名曲だ。この原曲はマタイ受難曲第1部の終曲にも使われている。私が日常的に聴くバッハはピアノが多くオルガンは少ないが、たまにはオルガンも良いものだ。

その後、森有正自身が色々と話す肉声が聞こえてくる。その内容も、含蓄に富んだものだ。彼の著作にしばしば出てくる「経験」という言葉の具体的な中身が、音楽を学ぶという行為を通じて現れてくる有様が生き生きと語られていて、深い感動を覚える。ここでは、人生と思索と音楽は同じ根で繋がっている、というより、結局同じ営みであることが示されている。

吉田秀和の言葉だが、彼は、人間が過去から承けたものを自分の働きで自分のものにする仕事を「経験」と呼んだ。それは個人が他人(つまり人類)の経験を自分のものにすると言うことと同時に、自分の経験を進んで他人の前に提出するのを恐れないことでもあり、そうなければならぬと主張しているが、このことは個人の好悪をこえた真実なのだ。「社会性」という言葉の本質的な意味は、ここにある。「社会性」とは、根本的に、他者とどのように繋がるか、と言う意味であるから。大きなカギになるのは「言語」であるが、人間のコミュニケーション手段は言語だけではない。文化・学問・教育・交流といった人間的な活動は、全部それらに繋がる。

私がこのようなブログを書き綴るのも、単なる自己表現・自己顕示ではなく、自分が学び得て消化し自分のものとした内容(考え、感想その他)を、今度は他人に披露して、客観的評価に耐えうるものかどうかを試すためである。この、他人の評価に身をさらす、と言うのは案外辛いものである。今流行の、SNSにアップして「いいね」を稼ぐ行為は、少し違う気がする。あれは、単なる承認欲求に過ぎないから。

柄谷行人が一時期思索の中心としていた「他者」との関係論も、結局のところ、こうした他人との経験の共有が可能かどうか、あるいはそれは如何にして可能になるかと言った問題に還元されるように思える。そのように考えることで、彼の高度に抽象的な言説にも具体的な実質が感じられてくる。

このLPに納められているコラール前奏曲は、上述の1)BWV622「人よ、汝の大いなる罪を嘆け」、2)BWV737「天にましますわれらの父よ」、3)BWV680「われらみな唯一の神を信ず」、4)BWV599「来たれ、異教徒の救い主よ」、5)BWV625「キリストは死の縄目につながれたり」、6)BWV632「主イエス・キリストよ、われらをかえりみたまえ」、7)BWV735「われ汝らに別れを告げん、汝悪しき偽りの世よ」、8)BWV656「汚れなき神の子羊よ」の8曲である。いずれも、素人ばなれした立派な演奏だ。森が如何にバッハ演奏に傾倒したかが良く分かる。彼の専門はフランス文学・哲学だったのだが。

森有正は、辻邦生と並んで学生時代にずいぶん愛読したものだった。ただし、辻作品はその大半を大いに愉しんで読んだのに対し、森の文章は難解で、何を言っているのか正確に理解していたとは言い難い。辻が敬愛して止まず、エッセイなどの中でしばしば言及するので、何となく身近に感じ理解していたような気がしていただけだ。森がこのレコードで述べている内容を、曲がりなりにも実感をもって受け止められるようになったのは、恐らく中年以後だと思う。だから、家にある森有正の本を再読したら、また得るものも大いにあると思う。現代では、森有正辻邦生福永武彦らと並んで「忘れられた作家」の一人に数えられるのかも知れないが、埋もれさせるには惜しい存在だ。実際、NHK「100分de名著」には、上記の3人や吉村昭中村真一郎らが取り上げられた例はないと思う。せめてこのブログで取り上げて、後世に語り伝えたい。それだけの価値は必ずある。

森有正は、私から見て、とても不思議な人だった。東大仏文科助教授の職を投げ打って渡仏し、生活に苦労しながら非常に沢山読み、書き、博士論文の構想なども公開していながら、死後にはその博士論文原稿は見つからなかった。しかし後から振り返れば、彼にとって博士論文などは問題でなく、毎日をどう生きてきたか、その経験の積み重ねがどうであったかの方が重要であっただろう。彼の最後の著作が「遠ざかるノートル・ダム」と言う題であることも、私の胸を打つ。この本を手にした直後に彼の訃報を聞いたせいもある。1976年の秋、大学3年の10月、私にとって非常に孤独な時期のことだった(その頃、誰とも交流がなかった)。ああ、とうとう森有正も死んでしまったか・・と思ったのを覚えている。彼は60代半ばで、まだまだ若かったのに。

しかし、今の私より若くして亡くなったこの人の著作目録を眺めると、とても充実した人生だったんだなあ、との思いを強くする。こんなにも沢山、優れた文章を書いたのだから。