生の意味

以前に、生きていることには意味があるが、死に意味はないし、意図的な「死の意味づけ」には危険な面さえあると書いた。では「生きている意味とは」何だろうか?

これに似た問いとして「何のために生きている?」がある。これは最近のNHKで「哲学的街頭インタビュー」という番組で使われた「深く根源的な哲学的質問」だ。しかし、これには私は違和感を覚える。なぜなら、この問いは生きるための「目的」(何のため)を尋ねており、生きること自体の意味(=価値と言い換えてもよい)への問いとは異なるからだ。

このNHKの質問だと「人は生きて行くために何か目的を持つ」ことが前提されているが、この問い自体に、何か問題があるのではないか?そこが違和感の根源だ。

結論から言う。私の考えでは、生きていることそのこと自体に価値があるのであって、何かの目的とか達成とか、言わば「外からの何らかの価値づけ」で左右されるものではない。産まれたばかりのスヤスヤ眠る赤子から、末期ガンで残り少ない日々を生きる患者まで、生きていることの意味=価値は全て平等で、差異はない。生きていること自体が、貴い。そこに、何らかの「目的」が要るんだろうか?全然、要らないだろうと私は思う。

生きて行くことに何かの「目的」がなければいけないと考えるから、それが見つからないと、つい「生きていることに意味はない」と短絡してしまう。しかし、実はそうではない。

生命科学を勉強すると良く分かるのだが「生きている」こと、それ自体が奇跡的な事態なのだ。1個の細胞が生きて行くために、どれほど多くの物質が関与し反応し、複雑精妙な役割を果たしていることか。最先端の生命科学でさえも、ただの一つも「人工生命」を創出できたことはない。そもそも、無生物の分子・原子がどのように集まれば「生命現象」が生じるのか、分かっていない。だから、たった一つの生きた細胞さえも作れていない。

人間の場合は、その細胞が数十兆個も集まって一個体ができる。母親の卵子に、父親の無数の精子がまとわりついて、その中の1個だけが受精に成功する。あなたも私も、そのようにして産まれ、生きている。だから、それ自体が、奇跡なのだ。「生きる目的」など、くそ食らえ!

一方、実際に生きていて幸福感を感じるかどうかは、その人の境遇による。まずは健康状態。身体のどこが痛くても、辛い。ひどい頭痛下で、私は幸福感を感じられない。もし三半規管に異常があれば、世の中はグルグル回り耳鳴りが響く世界だ。次に経済状況。お財布が空っぽでは、幸福感は得られにくいだろう。取りあえず生きて行くための貯えか収入は必要。今の世の中、その最低線のセーフティネットさえ不十分なのだが。

私自身は、この二つは最低限維持できているので、かなり幸福な方だ。その他に、私には人生の愉しみが幾つもあるので、生きてて良かったと思える機会は結構多い。次回は、それについて書こう。