自己紹介 5

実は、心臓には密かに自信があった。長年、バドミントンの選手だったから。60過ぎるまで、シングルスもやっていた。バドミントンにはシングルス(単)とダブルス(複)があるが、運動量は単は複の3倍くらいはある感じ。とにかく一瞬の休みもなく動き続ける競技だ。休息も短く少ない。だから中年を過ぎると単は諦め、複専門になる人が多い。年寄り向きに、トリプルズと言う3人制の競技もあるが、これはまだ少数派。やってみたことはあるが、面白いと思わなかった。

シングルスを続けるために、ランニングやトレーニングにも励んだ。1km4分ペースで10km走るのも平気な体力があり、安静時心拍数も毎分50か少し割るくらいで、当時はいわゆるスポーツ心臓だったと思う。今は透析患者になりバドはすっかり諦めて運動強度もガタ落ち、体形も以前とは比較にならないほどブヨブヨになってしまったが、心臓だけはまだ丈夫だ思っていたのだ。しかし、膝の故障で走るのが辛くなり、その後早歩きをしても息が切れるようになって今回、狭心症患者になってしまったわけだ。

現役時代、大学教員とバド選手を両立させるのは容易でなかった。一人で研究室を切り盛りしていたので、仕事がとにかく忙しかった。各学年数名ずつ、総勢10人程度の学生の面倒を見ながら、授業の準備と後始末、教室会議や各種委員会の仕事、学会発表や企業との応対、行政関連の仕事もあった。その他に業績の中心となる論文書きもしなければならなかったが、締切がないせいで、つい後回しになることが多かった。委員の仕事では、教務委員と入試委員の仕事が特に大変だった(学科内の委員と、学科から代表で出る学部・全学委員と、両方あった)。

それでもバド選手を続けるために、仕事は夜7時には切り上げ、大急ぎで夕食後、夜に練習やトレに出かけていた。工学部教員で夜7時に帰る人間は少なく、多くの人は9時10時過ぎまで研究室にいたと思う(どの部屋にも灯りがついていた)。大学の建物は、不夜城みたいなのだ。その中で夜7時に帰るのは「怠け者」だったが、私はそれを受け入れた。二足の草鞋を履くために。

平日だけでは仕事が終わらないので、土日も最低午前中は研究室に行き仕事。余裕があれば午後からトレーニングか、たまには家族と一緒に過ごしたこともある。

そんな生活なので、家事育児の手伝いなどは、ほぼ出来なかった。私から見ると、一人娘はいつの間にか大きくなって家を出ていったと言う感じで、私には父親らしいことは何も出来なかった自覚がある。家庭内暴君ではなかったが、自分のことだけで精一杯だったのだ。

そんな生活の中で、飢えていたものがある。それは、本を読む時間だった。昔から読書は欠かさない習慣だったが、何しろ本を読む時間がなかった。辛うじて、出張で出かける車中だけが貴重な読書タイムだった。だから、誰とも同行したくなかった。一人の時間が大切だった。