始まり、始まり、その3

前回、生成AIが書かないような文章を綴りたい、と書いた。このブログは多分、そうなるのではないかと考える理由を書いておく。

生成AIについてはまだ発展途上なので断定は出来ないが、私の見立てでは今のところ、所詮はネット界隈に散らばっている文献等から集めた文字列を、それらしく繋いで出力したものである。簡単に言えば「電卓」に近いと思う。何らかの文字列を入力し、出力条件を示すと、膨大な学習情報の中から条件に合いそうな文字列を探し出して出力するので、その有様は、数字を入れ演算条件を示すとたちまち答を出す電卓とそっくりだからである。

ただし、今はコンピュータの能力が上がり、学習機能も演算プログラムも格段に進歩しているので、計算機内部でどんな情報処理が行われているのか、我々には分からない。それを追跡しようとしても、演算量が莫大なため、人間が一個ずつ追いかけると何万年もかかるらしい(無論、追いかけた人はいないわけだが)。つまり、入力と結果の出力しか我々の目には入らない。

それを読んで人間がどう思うかなど、計算機の知ったことではない。正しいかどうかさえも。電卓が、演算結果の数字に何の反応も示さないのと同じである。故に、生成AIに何らかの倫理性とか責任を負わせるのは、原理的に無理があると思う。人間が使いこなすしかないのだ。

一方、私自身は昔から野党的少数派の人間で、なぜか常に日本社会の大勢から離れた位置に身を置いてきた。昔も今も、政府批判的な言論に終始している。別に好き好んで少数派になろうとしたわけではないが、自分の頭で考え正しいと思うことを言うと、政府批判的内容にならざるを得なかっただけなんだけど。

故に、私の意見は、ネット界隈で多数派を占める意見・文章とは異なるので、生成AIが学習する諸情報の中でほんの一角を占めるに過ぎないから、生成AIの出力する文字列に反映される確率はかなり低いと推定される。これが、冒頭の問いに対する解答である。